久しぶりに芸術関連。意外と人気な?ジェミニくんとの対話シリーズです。
(猫)自然主義とリアリズムはどう違うのでしょうか
(G)「自然主義」と「リアリズム(写実主義)」は、どちらも「現実をありのままに描こう」とする姿勢は共通していますが、「描き方」と「思想」に決定的な違いがあります。
「カメラで見たままを構成して描くのがリアリズム」で、「顕微鏡や解剖刀を使って、科学的根拠に基づき暴き出すのが自然主義」です。
例:ある「貧しい一家」を描くとき:
- リアリズム: その家族がどれだけ貧しく、社会制度のせいで苦労しているかを詳細に描き、読者に社会の矛盾を突きつけます。
- 自然主義: 「父親がアルコール依存症なのは遺伝であり、この劣悪なスラム街という環境にいれば、子供も必然的に犯罪者になる」という、逃れられない運命の法則を(時に目を背けたくなるほど生々しく)描きます。

令和よりは明るく楽しい時代だったかもしれん
https://akasakanoomoide.muragon.com/entry/234.html
(猫)現代日本の絵画における超写実主義は、上記のリアリズムをさらに精緻化したものでしょうか。あるいは、単に写真のような解像度を狙ったものでしょうか
(G)「リアリズムの徹底的な先鋭化」と「視覚体験の再構築」の両方を狙ったものです。
それは19世紀のリアリズム(社会の真実を描く)の延長線上というよりは、「見るということのゲシュタルト(全体像)」を解体し、再構成する現代的なアプローチです。
超写実主義の面白さは、あまりに精緻に描きすぎることで、逆に「現実よりも現実味が強くなり、かえって不気味(あるいは幻想的)に見える」という逆転現象にあります。
- 人間の目は、一点に焦点を合わせると周囲はボケますが、超写実絵画は画面全体に均一な解像度を与えることがあります。これは「人間の視覚」の再現ではなく、「レンズやデジタルデータの視覚」の再現です。
- 肌の毛穴、産毛、水滴の表面張力などを執拗に描くことで、鑑賞者は対象物を「物」としてではなく、一種の「情報」や「物質の驚異」として再発見することになります。
日本の超写実主義(例えばホキ美術館に収蔵されているような作家たち)には、どこか「静謐さ」や「祈り」に近い感覚が含まれることが多いのが特徴です。対象を徹底的に見つめることで、その背後にある「存在の不思議」をあぶり出そうとする態度は、ある意味で「禅」や「職人魂」に近い精神性を含んでいるとも言えるでしょう。
こうした「執念が宿った絵」を前にしたとき、ゾッとするような感覚を覚えたことはありませんか?

五味文彦 《いにしえの王は語る》 2018年 油彩・パネル
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/20_choshajitsu/
(猫)アングルの古典主義「泉」はぞっとしましたが、現代日本のポテトチップの絵はあまり感動を覚えません。ポテトチップスは、写真だと必ずどこか傷が見えてしまうそうで、あえて手書きで「完璧にうまそうなポテトチップス」という実在しないポテトチップスだそうですが、アングルの「泉」との差を教えてください。
(G)それは非常に鋭い、そして面白い視点です!パッケージのポテトチップスが「実在しない完璧な理想」を描いているという事実は、実はアングルの『泉』と「現実を修正して理想を作る」というプロセスにおいて完全に一致しています。
なぜ一方はあなたを「ぞっと」させ、もう一方は「感動させない」のか。
- ポテトチップス(商業的リアリズム):傷や焦げを取り除き、「誰もが美味しそうと感じる平均値」としての完璧さを目指します。個性が排除された「最大公約数的な美」です。
- 『泉』(古典主義的リアリズム):アングルが現実の肉体を修正したのは、自然界の不完全さを克服し、「絶対的な調和」を地上に召喚するためでした。そこには画家の狂気じみた美学が宿っています。

アングル「泉」(部分カット)
https://note.com/ka_niko/n/n3e7adb15b7e4
「完璧」の方向性が真逆です。
- ポテトチップス =不純物(傷、色ムラ)を消していく引き算によって「清潔で無難なイメージ」を作ります。結果として、誰も不快にさせませんが、誰の心も深く揺さぶりません。
- アングルの『泉』 = 美しさを際立たせるために、あえて解剖学的にありえない歪みを加えます(足の付け根や背中のラインなど)。画家独自の美意識による「過剰な足し算」です。その「人間離れした違和感」が、あなたに「ぞっとする」ような畏怖を与えたのです。
「実在しない完璧なもの」を描きながらも、一方は機能(コマーシャル)になり、一方は毒(アート)になった。まさに「デザイン」と「芸術」の境界線そのものだと言えるかもしれません。

https://www.amazon.co.jp/-/en/Calbee-Potato-Chips-Thin-2-1/dp/B0033V80Q4
(猫)超写実主義の源泉は、戦後の映画館で上映される映画のポスターにおいて、ともかく早くアメリカの人気俳優そっくりな絵を描く必要から生まれたというのは本当でしょうか。
(G)その説は、日本の超写実主義(スーパーリアリズム)の成立過程における「技術的なルーツ」としては真実といえます。しかし、芸術運動としての「超写実主義」には、もう一つの重要な側面があります。
戦後、カラー写真の印刷技術がまだ普及していなかった頃、映画館の看板はすべて職人による手書きでした。日本の超写実主義の先駆者である野田弘志氏などは、若い頃にこうした看板制作やイラストレーションの仕事に関わっており、その「職人的な正確さ」が後の芸術表現の基礎となったことは間違いありません。
しかし、単に「早くそっくりに描く」だけでは、それは看板技術のままです。「超写実主義」という芸術になったのは、そこに「思想」が加わったからです。
日本の超写実主義が、単なるアメリカの模倣に終わらなかったのは、先述の「看板技術」に、日本伝統の「職人気質」や、対象に自己を投影する「精神性」が結びつき。いつしか「一生をかけて一つの対象を突き詰めるための技術」へと変容していったのです。
ポテトチップスの絵が、看板描きと同じ「目的(売るため)」に留まっているのに対し、優れた超写実主義の絵画は、その技術を使って「見る者を異世界へ引きずり込もう」としている。その「技術の使い道の差」が、感動の有無を分けているのではないでしょうか。
(猫)看板描きは芸術ではないのでしょうか。正岡子規の写実と共通したものはないのでしょうか。
(G)「看板描きは芸術か」という問い、そしてそこに「正岡子規の写生」を結びつける視点、非常に鋭いです。
結論から言えば、看板描きもまた、ある側面においては間違いなく「芸術」と地続きです。そして正岡子規が提唱した「写生」の哲学は、まさにその境界線を読み解く鍵になります。
かつて、芸術と技術(手仕事)に明確な区別はありませんでした。
ルネサンス期の画家たちも、パトロンの注文に応じて「いかに本物らしく、美しく描くか」を競う職人でした。その意味で、戦後の看板描きが持っていた「誰が見てもそれと分かる圧倒的な描写力」は、芸術の最も基礎的で、かつ純粋な形態の一つです。
看板描きが「デザイン(商業)」に分類されるのは、それが「他者の意図(映画をヒットさせる)」のために描かれるからです。一方で芸術は、たとえ写実的であっても「自己の真実」を表現するために描かれます。
しかし、 看板描きが単なる「似顔絵」を超えて、描く対象に自身の魂を注ぎ込んだとき、それはもはや看板という枠を超えた「表現」へと変貌します。

ttp://rekishi-roman.jp/img/img-posuta/itakan-kyo-yatiyokan-z-.jpg

技法がよくわかる?のを探したら、寅さんになっちゃいました
https://www.crank-in.net/special/29533/1
正岡子規が俳句や短歌で提唱した「写生(写実)」は、空想や理屈で飾った言葉(ロマン主義的な過剰さ)を嫌い、「目の前にある事物を、そのまま言葉に写し取ること」を説きました。看板描きが「俳優の顔をそのまま写し取る」ことに心血を注ぐ態度は、この「事象への忠実さ」において共通しています。
- 『泉』: 子規の写生とは対極にあります。現実を「理想」のために「歪め」ており、子規なら「虚偽である」と批判するかもしれません。
- ポテトチップス: 子規の写生に近いですが、そこには「命」や「変化」への眼差しが欠けている可能性があります。子規が求めたのは、単なる外形のコピーではなく、「対象の生命感(写生)」でした。
- 看板描き: 人気俳優の「今、この瞬間の輝き」を捉えようとするエネルギーは、子規が愛した「一瞬の情景を切り取る俳句」に近い躍動感を持っています。
看板描きは、「実利(宣伝)」という殻を被った「表現(芸術)」だったと言えるでしょう。
なかなか手厳しいジェミニ。ぼくは映画の看板も大切なアートと思っています。

結局、これが究極の超写実かもしれん。
https://www.fukuoka-art-museum.jp/archives/pre_modern_arts/797
ではでは
