善悪の知識の実:善ってなんだ?そして悪とは?
「善いことをした人は天国に行き、悪いことをした人は地獄に落ちます」という言葉で、宗教は人に善行を勧めます。
そして天国はこんなところだよ、地獄はこうだよ、と地獄極楽の絵を作って信者に見せたりします。
地獄絵図
天国はともかくとして、地獄の絵を見せられた人は戦慄し。「おしゃかさまー!おしゃかさまー!どうか善行をしますのでお許しを―!」と必死になって善行に励もうとします。
しかし、ここで「善行の定義とは?」というそぼくな疑問に引っかかります。
―日本は第二次世界大戦でアジア諸国独立のきっかけを作り、マレーなど多くの国の人々が日本を感謝しています。でも一方で戦争にアジアの国を巻き込んで苦しみを与えたとして、フィリピンなどの多くの国の人々が日本に謝罪を求めています。
―アウシュビッツに進撃した米軍はかわいそうなユダヤ人の人たちを救いました。ところが、これはユダヤ人による汚染からドイツを浄化しようとするナチスから見れば許しがたい悪行です。
―奴隷労働や人身売買を摘発する警察の報道が世界中で絶えません。でもトム・ソーヤ―の時代のアメリカでは、奴隷を逃がすなんて言いうのは許しがたい犯罪でした。
こうした大所高所からの疑問にいたらずとも、例えば親戚の子供に「お父さんがお酒ばっかり飲んでご飯をくれない。おなかすいた、たすけてー」とせがまれたとき、①すぐ食べものをあげる ②「勉強して、がんばるんだよ」とあえて食べ物をあげない。さてどちらが善行でしょうか?②の場合「いじわるなおじさん。僕はがんばってもっと偉い人になるぞー」と勉強して本当に裕福な人に成長したら②のほうが善行なのでしょうか?そして①の場合、とにかく食べものを恵んでくれる人を探し回り、家を逃げ出してストリートチルドレンになってしまったとしたら、そのきっかけを作った悪行になってしまうのでしょうか。
要するに、「善に該当する行為の定義」なんて時代により国により人により千差万別で存在し、どれが正しい悪いは究極的には判別不能だったりします。
では、それぞれが自分の信じる善を行えばよいのでしょうか。あるいは、アラーの神とかユダヤ教の「主」とかの教典に説かれる、それぞれの「善行」をしていけば、少なくとも地獄行きは逃れられるのでしょうか(S2.)。
ここで、一つのポイントがかくされています。
つまり、世代や民族を超えた善というのがないのか、ということです。
おしゃかさまは、「ちゃんとあるよ」と教示しています。
すなわち「抜苦与楽(ばっくよらく)」です。
おしゃかさまらしい中道・常識派の教えですが、これがすごいのは、ともすれば「万事塞翁の馬」というか善と思ったことが裏目に出たりという懸念についても、おしゃかさまは「深く考えないでいいよ。自然に苦しみを取り除いて、安らぎを与えることにとりくんだらいいよ」と教えてくれているところなのです。
上記の少年の場合、①でも善行。一方、少年の性格や将来を見込んでいるなら、②も正解、ということになるのではないのでしょうか。
「抜苦与楽(ばっくよらく)」のすごさは、大義名分に寄り添った虐待(悪行)を正当化することを許さないところです。上記の例でいえば、ナチスの民族浄化はホロコーストという恐ろしい苦しみを発生させた時点で「悪行である。繰り返してはならない」。となります。
といって、「特攻は正義だ!なぜなら特攻機が沈めた空母からは、無辜の非戦闘員を銃撃する戦闘機は飛び立てないからだ!」と主張する人は主張するでしょうし。ぼくの個人的見解では特攻という必死の作戦を認めたところですでにアウトですが。
善意のひとであればあるほど「善って何?かえって人をくるしめることにならない?」と真剣に悩むと思います。
そういったひとたちに、応援のひとことを記載してこの記事の終わりにします。
「やらない善より、やった偽善のほうがまし。(マザーテレサ)」
ではでは、なますて。。。。。
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