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実は親友だった?ドラクロアとアングル

久々に西洋美術のお話です。でも、単なるウケ狙いのおもしろ記事ではなく、リピーター読者の皆さんには、成功法則や資金投資に関するポイントも詰まっている記事だとお分かりと思います。

さて、フランス革命からナポレオンの第一帝政、ウイーン体制からの共和制や王政の入れ替わりの時期にあたる1798年から1863年に、フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワというにいちゃんが登場しました。同時期の1780年から1867年にはジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルが登場。ちなみに、1867年は日本では大政奉還が起き、次の年の1868年に元号が「明治」になった。

つまり、世界中で大変動が起きており。フランスではギロチンで王様の首がちょん切られ、ナポレオンが下剋上で帝政を敷いてヨーロッパを荒らしまわった。ゲーテ言うところの「疾風怒濤」がヨーロッパ中をあれくるい、いわゆるひとつの「ロマン的危機」が生まれていた。

すなわち、「ロマンチックな時代」です。アンシャン・レジームの封建的な決まりきった日常から明日をも知れない大変動の日々に突入。ロシアやエジプトに侵攻し、次々に新しい世界を切り開いていくナポレオン。その劇的な敗北と失脚。ウイーン体制の反動など、要するに少年漫画もびっくりの冒険・どんでん返しがこれでもかと押し寄せ、美術の世界でも劇的な世界の動きに感化された劇的な絵画が生まれました。これがロマン主義美術です。

そしてロマン主義美術の大本山フランスの、ロマン主義美術の旗手として活躍したのがドラクロア。とここまで書けばどんな絵かは自明と思います。代表作を掲載してみます。

キオス島の虐殺

 

サルダナパールの死

 

(第四回)十字軍のコンスタンティノープルへの入城

 

モロッコのスルタン

民衆を導く自由の女神。

さて、ロマンな時代のロマンな絵画で時代の寵児となったドラクロアですが、当時模範とされていた「絵のかきかた」と差があったため、アカデミックなサロンとかからは批判の対象となり。

当時の「正しい絵」とは、穏やかで控えめな色彩、厳格で静謐な空間があるべきで、情熱や激情なんて生々しい、はしたないのはやめましょう、という、言ってみれば保守的な内容を求めていたのに対し、ドラクロアの絵はその逆でした、ということで、例えば「キオス島の虐殺」は「絵画の虐殺だ!」と批判を浴びたりしました。

といって、いかに大本営発表で「正しい絵だけかきましょう」といっても、激動の時代が生み出した激動の絵画は止めることができないわけで。ドラクロアも先輩画家(実は保守派の人)からの後押しなど得て、1822年にパリ・サロンに入選したころから、保守派勢力を一掃しそうな勢いで名声を得始めました。

保守派勢力はあわてふためき。

だれかロマン主義・ドラクロアに勝ると劣らない「新古典主義絵画を代表する絵を描ける」達人がいないのか?と大捜索をはじめたら。。。。

いました。その名もジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル。

こまかいこといわんと、まずはアングルのおっちゃんがどんな絵をかいたか見ていきましょう。

玉座のナポレオン(「花とみつばち」ではない)

 

ジュピターとテティス

 

ホメロス礼賛

 

ラファエロとフォルナリーナ

 

ルイ13世の請願

 

Wikipediaによれば、アングルの作風は「入念に構成された調子の緊密な諧調、形体の幾何学的解釈など、入念に組み立てられたテクスチャと徹底的に研鑽された描線、そして緊密な調子の諧調により成立する空間は「端正な形式美」」となっています。すなわち、

◎新古典主義の最高峰にして、具象画、写実主義絵画の完成形に到達した

という恐るべき功績を達成した。

体制派のアカデミズムに祭り上げられた最高有識者のアングルと、民衆の激情を余すところなくぶちまけて時代を駆け上がったドラクロアは、とてもステキな好対照をなして、西洋絵画の発展にものすごく貢献したのでした。

ドラクロアとアングルの対立。当時の風刺画

ドラクロアは、アングルのことを「不完全な知性の完璧な表現」と言い、アングルの方はドラクロアのことを「醜く恐ろしいものしかかけない」と憐れんでいたそうです。ははは

両者の絵を並べてみます。

要するに、アングルは「NHKの教育番組」であり、ドラクロアは「ちょっと穏やかな韓流ドラマ」ですね。。。。なお、韓流ドラマをえげつなくして、それこそ醜いもの、恐ろしいものを強調していくと「コンテンポラリーアート」へ行ってしまうので、また別の記事でトライしてみます(現代アート好きのみなさんごめんなさい)。

さて、世間一般で通用している両者のイメージはこんな感じですが、実はもっとやばい所で両者類似点があるかも?

ドラクロアの方はあまり陰ひなたがなくて、すなおにロマン主義路線を驀進しており。問題はアングルで、新古典主義アカデミズムのインフラや地位を謳歌しながら、実は?な絵をかいたりしています。

たとえば

グランド・オダリスク

デフォルメです。

新古典主義のくせに、端正を放棄して「ロマンチックなプロポーションを妄想」しています。

しかも「胴長」です。

どういう美的感覚しているんだアングル?まあ、美的感覚なんて個人の自由ですけど。ほかにも首が異様に太い女性とか、なんか「壊れてる?」

通報一歩手前の怪しいおっちゃんなのかもしれん。

当然ながら「椎骨が2つか3つ多すぎる」などと猛批判にさらされてしまい。ただ、上記のとおりこういうアプローチで議論を白熱させてしまうと「新古典主義の旗手アングル」が旗手でなくなってしまうし、アングルの方も自分の表現を顧客に普及してくれる重要なストラクチャーである体制派の組織や人々とそうそうケンカするべきではないということを十分理解しており。10年近く批判にさらされながら、アングルが新古典派での地位を固めるに従い、うやむやじゃなかった円満に収まったらしい。

花とみつばち。♪僕たち男の子♪ヘイヘイ!

要するに、アングルは「隠れロマン主義だったんじゃ?」なのかもしれません。ははは

もしかして、1850年くらいのパリの、とある料亭じゃなかったどこかのカフェで、アングルとドラクロアが密会していたりして。。。。。

アングル「いやいやこたびの新聞では拙者とお主がますますいがみおうていると書き立てておるぞ」

新聞の挿絵

ドラクロア「フォッフォッフォ、めでたいことでござるな。これで頭空っぽのブルジョアどもが報道に躍らされ、ロマン主義も新古典主義もますます注目を浴びて、絵が高く売れることとなろうぞ」

アングル「まさにその通りじゃ。お主もぜひアンチ新古典主義のアジテーションを引き続きお願いいたすぞ。拙者は宮仕えの身。作法から外れた言動をいたすとサロンから締め出しを食らうでのう」

ドラクロア「いやいや拙者もこのところサロンに認められて、ゆえにあまり派手な絵もかきにくくなってしもうてな。いっそアングル殿のように体制に担がれた隠れロマンチックになりとうござる」

アングル「しかし、それも窮屈でござるぞ。まあ絵が売れて生活安泰なのは良いことでござるがな。ロマンチックな絵を新古典主義として売るのもなかなかに面白いものじゃ」

ドラクロア「お主もワルよのう」

アングル「おぬしこそ。フォッフォッフォッフォッフォ。。。。。」

最後はよい子の創作童話でした。

「アンジェリカを救うルッジェーロ」ドミニク・アングル

お主もワルよのう、の元ネタはこちら↓

ではでは。。。

 

Posted by 猫機長
美術ってなんだ
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美術ってなんだ?西洋美術と日本美術の差(最終回)

いやいや今回含めて4回にわたった連載。いつまでも際限なく続くと焦点がぼけちゃうので、えいやー!と最終回にしました。

口上はそのくらいにして、本題いってみます。

さて、西洋美術は「ふむふむ」、日本美術は「わくわく」だった、というのが前回での結論でした。

西洋美術は、記録媒体として、記録された物語を誰もがわかるように理性的かつ写実的に絵をかいた。それは聖書の物語であったり、メディチ家の誰かの肖像であったり、「民衆を導く自由の女神」みたいな概念の擬人化であったり。もちろん風景画とかで名画も多いのですが、基本スタンスは、風景はあくまで背景で、その風景を背景としている出来事や登場人物について、やれアレゴリーだのアトリビュートだのでくどくど説明し伝達するのが西洋美術だった。

*アトリビュート:持ち物。白百合を持った青と赤の服装の女性がいたらマリア様を表す、など。

*アレゴリー:寓意。抽象的な概念を具象化したもの。サイコロの絵は幸運、頭蓋骨は死、とか。

日本美術は、西洋美術と比較すると「単なる模様」だった。ははは。。。。そして、花鳥風月とか、模様ちっくな唐獅子や雷神とかがふすまや屏風にでかでかと描かれ、お城などの装飾の重要な部分として発展してきた。すなわち、日本の場合芸術と工芸があまり分離してなくて、刀の拵えにしろ、屏風やふすまにしろ、実用品の装飾、という性格がつよく。西洋のように美術は美術で独立しており、美術のための美術なんだ!工芸じゃないぞ!みたいな考えはないらしい。

尾形光琳「燕子花図(かきつばたず)」

またまた脱線しそうなので、本題の中の本題「西洋と日本の思考回路、生命の危機にさらされた時の行動の違い。コロナ禍における日本の不可思議な対策の理由」にむりやり行ってみます。

西洋の思考回路は「始点・終点があり、終点つまり成功・成果に向かって直線的に進化していく」アプローチです。日本の思考回路は「天下太平の世を孫子の代まで守り抜く、つまり過去、現在、未来が一つになってぐるぐると同じ地点を回っている」アプローチです。

*なお、人類は螺旋状で進化する、という理論があり、事実西洋絵画もデフォルメと写実の間でルネサンス→バロック→新古典主義→ロマン主義→自然主義・印象主義などと振り子のごとく、あるいはぐるぐると回っていながらも、この回転がねじのような螺旋を描いて進化していますが、日本の場合は徳川300年で、螺旋ではない単なる回転となるよう押さえつけられてしまいました。明治になりワープした。

で、西洋人の場合、理性的、普遍的な規則によってこの進化を客観的に達成しており。数学がいい例で、哲学的な意味に入るまでもなく、単なる算数レベルで、1+2は、西洋人にとっては3です。ナチスドイツであろうがソ連であろうが大英帝国であろうが、1+2=3であり、これ以外の答えはありません。

ところが、日本人の場合、その場の空気で3なり4なりに変化し。みんなの雰囲気で3.23となっているものをうっかり3.26となど言おうものなら、たちまち「空気が読めないやつ」と村八分になります。

例えば、会社の報告書などで、首相じゃなかった社長が一声「3.35だよ」と言えば、1+2は3.35です。でも、そのままでは検察じゃなかった税務署に呼び出され大変なことになるので、報告書の添付書類で「今回の調査により、小数点以下の誤差が発見された。1の場合、その誤差は0.11に該当し、2の場合は0.24である」と、誤差を合わせれば3.35になるよう、官僚じゃなかった事務方が必死にフォローするのですが、もちろん税務署は喜んで「なぜ誤差がでるのか」「1の場合0.11となる理由は何か」「2の場合は。。。」と際限なく重箱の隅をつつく質問をしてくるので、こうした「すべての質問に対する想定問答」を含んだ「実施方針対策」をあわせて作成することになり。辞典一冊みたいなぶ厚い参考資料が報告書にくっつくことになります。

もちろん、だれしも「辞典みたいな参考資料」を作ることは避けたいわけで。でどうするかといえば、普段から首相社長をカラオケにお誘いしお言葉をお聞きし、事務方同士ではZoomだろうが何だろうが、飲み会や日勤教育などで「首相社長が言いそうな数値」を事前にリサーチしておき。「今度の報告書では3.37とおっしゃりそうだ」とわかってくれば、最初から「この3.37は、1+2.37から導き出された結果です」と、税務署も文句ない?報告書にすることができます。あえて書く必要はないと思いますが、なぜ「飲み会」が必要になるかと言えば、しらふでの場面では1+2=3以外にありえないからです。こういう「飲みにケーション」ができる人はいいのですが、できないと公園で一日を過ごしたり、ニートの境遇に追い込まれたり、電車に飛び込んでしまうことになります。

長くなりましたが、日本の場合「成果を求めない。成果自体が変わってしまう」というケースがあるということです。

1+2のケースでは、計算結果は上記の「国会会社」あるいは「ママ友のグループ」など、はっきり言ってそれぞれが属しているクラスターの「空気」に従って決定され、そしてそれは日々流動することとなります。

で、コロナ対策。

この対策の目標、成果についても、いろいろなクラスターの空気によって変化しています。

その結果、日本政府の政策はこうなりました

出展:https://note.com/hyamaguchi/n/n0c60c7292ec3

ブラジル大統領の確信犯バカッター発言「ただのカゼだ」の方がまだましかもしれん。やってることは日本政府と同じですけど。。。

日本では、巣ごもりの人、花見に行く人、そしてキャバクラに行く人もそれぞれが属するクラスターの空気に従っているだけだと思いますが、しかしこの玉虫色に変化するスタンダードが大惨事を招く可能性があります。

実はそう遠くない昔、日本の軍部は「飲みにケーションでしか説明できない決定」で、飲みにケーションなんて感知しないアメリカと戦争を始め、原爆を落とされました。コロナも飲みにケーションなんて通用しないウイルスです。

ぜひ日本の人は、日本の政治家がいう「注意お勧めします」というこれまた煮え切らない玉虫色の勧告ではなく、世界で日本に先駆けて起こっている参事を参考にして、徹底した巣ごもりを実行すべきと考えます。

このままだとかなり暗然とした終わり方になってしまうので、ちょっと補足

―西洋の超一流の芸術家たちは、芸術と言いながら理論・理性に縛られて、直観・啓示・感性が遠ざけられてしまっている現実に悩んでいた。

―そこに「わくわく」の日本美術、理論なんて細かいこと言わんと、ダイレクトに感性だ!という「12歳の少年のもつ純粋さ」が直撃し。西洋人の精神年齢「45歳の老獪な成人」の凝り固まった感性を粉砕した。これがジャポニズムです。

もちろん、たとえばアングルの写実絵画にも啓示や感性はあります。(「泉」を見て、おもわずその絵画の中に迷い込んでしまったような錯覚を受けるとか)。一方、知らず知らずのうちに単なる歴史・人物・事件・風景の絵解き説明になっているだけというケースもあり。すなわち、「歴史、人物、事件なんてどうでもいい!絵画がそれ自体で芸術として成立すべきだ!」という叫びが生まれていたところに、「犬図」みたいな日本画を見て、まさに成立している実例があることに驚愕した。そして、純粋芸術の可能性に目覚めた西洋の芸術家たちは、西洋人得意の「直線的進化」によって、まずは画題からの解放、そして具象から脱出し、「点と線と面」へと進んでいます。この辺の話は、またいつか「カンディンスキー」をお題にして書いてみたいと思います。

大好きな「犬図」。毎回こればっかりですみません

さてさてまたしても3000字を超えてしまいましたので、この辺で終わりにしますが、日本人の「12歳的柔軟思考」が良い面で出れば明治維新や戦後初期の民主主義導入(そしてジャポニズムも)、悪い面で出れば軍国主義となり。コロナ対策ではかなり悪い面で出てしまっていると思います。天真爛漫な12歳に回帰しながらも「螺旋状に進化していく日本」を願っています。

ではでは。

 

Posted by 猫機長
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美術ってなんだ?西洋美術と日本美術の差

美術ってなんだ?西洋美術と日本美術の差

以前、ひょんなことからルネサンス美術の恐るべきからくりについて書きましたが、そもそも美術とは何か?という再確認をしたうえで、頭でっかちな西洋美術と、ほにゃららな日本美術の接点を探り、美術に現れる日本のお国柄を理解し、ゆくゆくは日本の不可思議な新型コロナ対策の解明を試みようと思います。

さて、美術ってなんだ?

簡単に言えば「表現」です。ははは

「内的必然性(Inner Necessity)の表現」。

こんがらかった人は、上の言葉はちょっと忘れて

「表現者(画家)が、表現を通じて鑑賞者に何らかの情報(意志、理念など。感性も?)を伝え、鑑賞者へ感覚的に何かの啓示なり感動なりを呼びおこすもの。」

そして呼び起こす根源となる表現、表現物、物体を作品と呼べばわかりやすいかと思います。

美術は、芸術の中の仲間です。ほかにいろいろ仲間があり。

文芸:小説とか詩。このブログの文章なんちって

音響芸術:軍艦マーチ。AKB48やベートーベンももちろん入ります

舞台芸術:演劇・ダンス。ブルゾンちえみ。

映像芸術:映画。「トラ・トラ・トラ」や「日曜日の恋人たち」なんてのもある。

造形芸術:ミロのビーナスとかの彫刻や、建築。ぼくはBAUHAUSちっくなやつやコルビジエが好きです。ニーマイヤーはおおざっぱすぎてううむ、というかんじ

視覚芸術:ここに美術が入る。ドミニク・アングル、キリコやホッパー、リキテンシュタイン、そしてカンディンスキーなど。

美術についての簡単な定義が定まったところで、西洋美術にいってみます。

1.西洋美術のスタートは「初期キリスト美術」。

あれれギリシア美術は?という質問があると思いますが、ローマ後期から、ゲルマン大移動と、フランク王国など蛮族による諸王朝によって埋もれてしまい。当時芽生えた初期キリスト教美術と、続く初期中世美術をスタートとさせていただきます。

さて初期キリスト教美術・初期中世美術の特徴ですが、ギリシア(ヘレニズム)の精緻・繊細・躍動感はどこかに行ってしまい。

受胎告知。教会壁面のモザイク。作者はだれだろう?

素朴というか幼稚というか、ポーズも表情も固定して、なんかお役所の公文書みたいな感じ。つまり「書式からずれてる!書きなおーし」とはならないにしても、「こうしなさい、こうあるべし」というのでかなりがんじがらめになっていたらしい。

そして、表現が目指すものは「文字の読めない人たちにキリスト教を絵でつたえること」でした。

2.次に出てくるのがビザンティン美術。ギリシア文明の継承者を自称する東ローマ(ビザンティン帝国)ですが、やっぱり公文書みたいな堅苦しさあり。イコンといって「聖書における重要な出来事や、教会史上の出来事を画いた画像(Wikipedia)」が発達。人々の目指すべき理想を絵にし、指し示すもの、ということで現在のアイコンの語源になったとの説あり。

表現が目指すものは、やっぱり「キリスト教の普及、広報」でした。

「ウスチュグの受胎告知」

3.東西貿易など、イタリア諸都市をはじめとした新勢力が勃興すると、これらをパトロンとしたルネサンスが始り。硬直化して身動きの取れなくなった美術を、掘り起こされたギリシア美術の均整、写実といった技法で再発見し、人間中心の絵画が生まれました。題材として聖書は主流にあり続けましたが、登場するのはイコンではなく、人間と相通ずる肉体、精神を持った聖人賢者になりました。

フラ・アンジェリコの受胎告知

表現が目指すものは、「キリスト教や肖像画を通じた教会やパトロンの広報」でしたが「教会やパトロンも人間」「絵に出てくる天使などにも人間と同じ感性が表現」されはじめました。

*ただし、この時代からの広報やプロパガンダは、ある程度エリートの人たちの間にとどまっていたらしい。新聞みたいなマスメディアによる普及は、後に書くように写真の出現以降、あるいはルーブル博物館の一般公開開始(1793年)以降などの説あり。

4.一方で、西欧美術の擁護者であり指令塔であったカトリック教会は、メディチ家とかの大商人、絶対君主やプロテスタントの勃興など、資金、政治・軍事、宗教全方位で危機にさらされ。これじゃいかん、もっと檀家(信者)を増やして財力・権力を回復せねば!と、プロパガンダ大攻勢を開始します。

この流れでバロック美術が登場。お題は聖書で変わりがないが、表現方法をとにかくドラマチック、見ている人が感動して涙してしまうような「ドーンと衝撃的な作品」で、カトリックファンを呼び戻そうとしました。

従って、表現が目指するものは「キリスト教の広報、普及だが、見るものの感性に訴えて否応なく引き込む」

つまり、ここで「理性・情報の伝達」より「感覚・感情の作用」がまさりはじめた。

エル・グレコ(受胎告知)

5.ロマン主義

フランス革命にナポレオンの時代。王や貴族より民衆の方が強くなっていった。ギロチンで王様の首が飛ぶ大混乱、大革命の時代を象徴して、美術も情熱、夢想。ついに情感が前面に出はじめます。この時期を代表する画家にウジェーヌ・ドラクロアという人がいます。

ドラクロア「受胎告知」

ううむいがいにインパクトがないなあ。。。というのも、ロマン主義は「神・主、ヨーロッパ普遍」よりも「各国の個人の自我」を表現するのが得意なので、下の方が有名です

ドラクロア「民衆を導く自由の女神」

表現しているものは。。。「自由、平等、博愛といった、自我を持つ人間の精神。勇気、希望、情熱と言った、やっぱり自我を持つ人間の感性」。宗教から分離し始めているが、民族・国家のプロパガンダとしての色彩はまだ濃い。

6.ロマン主義と前後して、新古典主義があり。

熱狂的に受けた「巨人の星」が、時代が下るに従い「ギャグマンガ」と受け取る人が多くなってしまったように、バロックの暴力的な迫力は、受ける人には受けるがちょっとくどくてねー、となり。「やっぱりもっと均整がとれた、古代ギリシャみたいな細部まで精密な美術に回帰しよう」と新古典主義が生まれました。

この絵をみて、めらめらと目に炎が燃え上がる人は昭和のおっちゃんです。

ぎゃははなにこれー!と笑っちゃう人は令和のゆとりくんです。

(出展:https://ameblo.jp/kamome4022/entry-12177778646.html)

重厚で格調高く、どっしり威風堂々とした絵が新古典主義の特徴です。

宗教画もあるのですが、なぜか受胎告知は発見できず。ということで、ナポレオンの肖像画を掲載。

ダヴィッド「アルプス越えのナポレオン」

この美術学派の表現するもの:ううむ「パトロン、あるいは芸術家の意志を写真のような写実的な絵柄(モデルとは思い切り似てない可能性あり)で視覚化する」。

ちなみに、ぼくはアングルの大ファンです。アングルはこの時代の代表的な画家で、「当時発明された写真が「画家の生活を脅かす」としてフランス政府に禁止するよう抗議した(Wikipedia)」らしい。

そして、この抗議が、西洋美術の本質を物語っていると理解します。ここがこの記事のコアポイントです。

写真が登場するまで、西洋美術とは、神様、天使や、メディチ家やナポレオンなどの世俗権力者、あるいはフランス革命などの歴史的大事件の描写と報道をするための手段だった。あるいは形式、あるいは理性、あるいは感情と、写実やデフォルメの間を行ったり来たりしながらも、その「報道写真」としての本質は変わらず。

しかし、写真の出現により、美術の存在価値は180度転換します。

報道写真。(出展:Photograph by Joe Rosenthal, AP)

もはや書くスペースがなくなってしまったので、今回はこの辺で終わりますが、何百枚でも複製できる写真の出現で写実のくびきから逃れた美術は、

7.形而上絵画、キュビズム、シュルレアリズムなど、感性そのもの、純粋な内的必然性の表現となって生まれ変わりました。

そして、西洋美術の生まれ変わりには、実はいかにも日本的な日本美術が恐るべき影響を与えたことも別記事で書きます。その序章として「日本画にしか見えない日本画」を掲載して、結びにいたします。

シュールでかわいい犬くん。

仙厓和尚 犬図

きゃふんきゃふん。ではでは。。。

Posted by 猫機長
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あなたの給料をおびやかす?シンギュラリティのお話

あなたの給料をおびやかす?シンギュラリティのお話

「技術的特異点」とも言います。現在の人工知能が人間の知能を超える転換点のこと。AI関係の進歩は目ざましく、半導体の世界では、半年から2年のサイクルでコンピュータの性能は2倍になるらしい(ムーアの法則)。でもって人間の知能を超えるのが2045年となるらしい。この転換点を、シンギュラリティというそうです。

昔むかしのコンピューター「メインフレーム」。ぼくもインターン時代いじったことあり、磁気

テープがロールから「ぐににに」とほぐれてしまい、泣きました(80年代後半のお話し)

こういう話をすると「そんなのウソだよ、AIは意識を持つことはないからだ」という人がいます。

まさにこの辺がポイント。つまり、AIは人間がプログラムした作業を忠実に行う器械であって、単純作業の反復、ルーチンをより早くこなす、という意味では人間を超えているが、それは作業能力であり、自ら思索・思考できる人間の知能(精神と知能)を脅かすものではない、という意見ですね。

では、AIは意識を持つことはないのでしょうか。

意識の根源は「考える力」です。

パスカルが言う通り「人間は考える葦である」。コンピュータのみならず、人間とその他すべてを分け隔てるのが、「考える力」です。ゴリラや猫など、類人猿や人間と交流する能力のある動物はある程度知的能力も発達させていますが、三項能力の完全な獲得までに至っていません。

三項能力とは、

①自分の存在を知覚し、

②自分以外の存在を知覚し、

③自分以外の存在と自分との間の交流を行い、

④交流する相手の考えていることを推察して、その考えに対応したリアクションをする能力

です。

AIは自分という身体(からだ)がない電波だけの存在なので三項能力が成立しない。したがって思考を発達できないので人間を超えることはない、という理論です。

ふむふむ2020年現在のAIはそんなかんじですねえ。

例えばコンピュータでネットショッピングしてみます。

ユニクロみたいな衣料品店のサイトにはいって、目指す製品を探します。

常夏のブラジリアから真冬の成田空港に降り立った時、ユニクロの支店でヒートテックの「ももひき」
を売っており、凍死を逃れることができました。ユニクロのみなさんに感謝。
https://www.uniqlo.com/jp/store/feature/uq/men/

 

まずは

①「メンズ」をぽちっと押してみます。

すると②「ジャケット」「パンツ」などのオプションが出てくるので、「ジャケット」。

そしたら③「ドカジャン」「タンクジャケット」が出てきましたが、購入したい「A2フライトジャケット」はなかったので、何も買わずに離脱しました、なんてははは

つまり「事前にインプットされた選択肢の中から行動を選ぶ」というのが現在のAIの進化状況である。

ぼくも大学でプログラム理論かじりましたが、上記の操作がコンピュータ側でどう認識されるかというと

Select メンズ(上記①)

-IF メンズ Than goto ジャケット or  パンツ(上記②)

    -IF ジャケット Than gotoドカジャンor タンクジャケット(上記③)

       - IF ドカジャン Than goto ●●●

       - IF タンクジャケット Than goto  ×××

という感じ(Pascal言語の例です。うろ覚えなのでいい加減です)

つまり、人間がプログラムした「もし(IF)」メンズが選択されたら、「その時は(Than)」ドカジャン「あるいは(Or)」タンクジャケットの「いずれかを選択しろ(goto)」という想定を忠実になぞるのがコンピュータであり、想定外の対応はできません、というのが現時点での限界である。

たとえば、高見山みたいなおっさんが「メンズとレディーズのボタンだけで、トランスジェンダーのボタンがないから作って」と要求しても、現在のAIにはそういう能力はありません。白か黒か0か1かではない虹色の何か想定外の事象について、記憶・経験・感情も?などをもとに理解し、新たなオプションを創造して対応する、というのは今のところ人間固有の能力です。

きもいたとえをするな!と言わないでください。

本稿の重要な結論にからんでいるのです。(©文藝春秋)

では、AIと人間はずっと一線を画した状態でいられるかというと。。。。

特定範囲でのプロセッシングしかできない「特化型人工知能」はすでに時代遅れの「弱いAI」と呼ばれ始めており。ビッグデータの分析から、深層学習能力によって自分自身で自分のプログラムを改良し、0でも1でもないAI自身が「考え出した」独自の回答を引き出すところまですでに現実化しはじめているらしい。いわゆる「エクスポネンシャル(累乗的)」な進化によって、AIも思考能力そして意識を獲得しつつあるそうで、識者によっては自立性を持つ「汎用人工知能」、人間の脳と変わらないニューロンコンピュータすなわち「強いAI」が遠からず実現し、人間の脳にある情報を転送するなどで、肉体は死んでも意識はコンピュータで継続できるなんてSFちっくな世界が来るかもしれないそうです。

SFちっくはともあれ、シンギュラリティまでコンピューターが進化すれば、事実上知的労働であろうがAIは人間よりよっぽど優秀にできるようになり。その結果とても「生涯現役だ」なんて言ってられない大失業時代がやってくるであろうことは別記事で述べました。でもその恐慌を生き延びた人は、ベーシックインカムでかえって文化的な生活を送れるようになるかもしれん。

未来はあらゆる可能性に満ちています。将来AIが自己智(第1図)、意識や感情を獲得し、高見山(みたいなおっさん)が「スカートほしいの」なんて要求したとたん「ぎゃあああー!」バーン!なんて爆発しちゃうコンピュータが意外に早くあらわれるかもしれませんね。

ブルゾンちえみだったら、

「かわいいー!無料サービス!」とか。

(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1702/16/news149.htmlから加工しました)

ではでは。。。

 

Posted by 猫機長
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新型コロナ。在宅勤務であばかれた会社の実態

新型コロナ。在宅勤務であばかれた会社の実態

在宅勤務も定着し、いろいろプラスマイナスが言われています。

プラス面

◎地獄の満員電車・通勤がなくなった

◎余計な同僚との会話、特に上司との面倒なやりとりがなくなる(ダイヤモンド・オンライン)。

◎会議にしても、いちいち移動に係る時間が不要になり、エチケットとして前もって通知は言うまでもないが、いつでもどこでもスマホでできるようになった。これでかえって連絡が密になった。

マイナス面

●リモートワークに必須のコンピュータ操作が大変。ただし一度修得してしまえばマイナスではなくなる。

●一日中家族と一緒で、かえっていがみ合いが生まれた。ははは

●独り身で、ウサギ小屋の独房に引きこもりになり、鬱になった。しくしく

要注意な一面

●上司とのカラオケや飲み会、ゴルフやマージャンがなくなった

など。

しかし、プラスマイナス以前の厳然たる事実は

◎一か所のオフィスに集まって仕事をするスタイルには無駄が多い。今やテレビ電話もスマホで簡単にできる時代であり、外にいても会社のデスクトップを操作することが可能である。(artconsultant.yokohama)

であり。

上記Artconsultant社調べの情報では、リモートワーク移行により、オフィススペース削減など経済効果は米国で「年間で1000万ドルから1500万ドルの経費削減ができる」。

金額の多寡より、要すればリモートワークの方が効率的・効果的という事実が明確になってきたということである。

介護施設の人とか、看護師、工場のワーカーとか、AIではなく肉弾で仕事をする人は別になりますが、フツーの会社員だと、会社に来たらまず「自分の机のコンピュータ」を開き、本社や上司からのメール指示、仕事相手との連絡、各プロジェクトの進捗や支払いはじめ経理作業など、会社の自社ソフト・プログラムで、サーバーコンピュータにより各社員間(関係部署間)がつながっているので、この「机の上のコンピュータ」ですべて完結しているのです。

つまり、「机の上」の「机」が、オフィスだろうが、出張先のホテルだろうが、自宅のちゃぶ台だろうが実は関係なくなっているのである。

「机の上のコンピュータ」を社員に渡すかどうか、という会社側にとっては自らの存続を脅かす判断について、どのように会社が向き合っているのでしょうか。

ぼくは、「社員が会社のデスクトップを自宅に持ちだすことをかたくなに拒む会社」を知っています。ただし、(推測ですが)悪意はなく、単に世界中に散らばった支店の無数のデスクトップが会社の外に出てゆき、盗難やハッキングなどにあったらどうしよう、という恐怖のなせるわざだと理解しています。わりかしワールドワイドのでかい会社で、「大男総身に知恵が回りかね」ですね。。。

一方、悪意そのもので「かたくなに拒む」ケースもあり得ます。このケースが、現在の「1億総社畜化」を雄弁に物語っています。

そもそも会社の存在意義とは何でしょうか。

いろいろの中でわかりやすい説明に「会社は、出資(労働なり資本なり)から生じる利益を分配するために、共同事業に財産又は労務を提供することを契約により合意する2名又は数名の者によって、設立される。(フランス法・Wikipedia)」があり。

ここで、会社の2つの特性が生まれます。

1)人の集まる場所としての会社。集落。つまり「ムラ」です。「全員一丸となって」「汗をかいて」同じ方向を向いている人たちの集まる場所。一方で、うっかりよそ見をしてしまった人には、オフィスリトリート(つまり日勤教育)などで軌道修正のムチが待っています。もしあなたの会社が「カジュアルデー」でみんなと違う服装になっていないか戦々恐々と探り合う、というのであれば、「ムラ」タイプの会社にいるということです。

2)収益、利益を出すための組織としての会社。こちらは一定の成果品を出すためにいろいろな部署の人たちが知識を出し合う組織。人事の鈴木さん、経理の安倍さん、営業の大平さん、システムの中曽根さん、などがそれぞれの担当業務をこなして組織が給料を生みつつ回っていくことが主目的となっています。そのためであれば、クラウドなり、リモートなりなんでもいいじゃん、というタイプの会社で、上記のArtconsultant社が情報収集した2017年、つまりコロナ禍以前からこうした会社が生まれていたということですね。。。。

すでにお分かりかと思いますが、日本の会社は圧倒的に1)タイプです。「みんないっしょ」、くどいですが「みんな」と「いっしょ」がないと成り立たないので、とにかく「集団行動が生命線」。

戦後60年代のマンパワー集約型の輸出産業において「全員が一糸乱れず機械のごとく作動する」日本企業が恐るべき競争力を発揮したことは異論ないと思います。ただし、今後はどうか。

ムラ型の会社は、あらゆる場面で「3密」を求めます。社員の一人一人が自分の考えをもってしまうと「全員一丸で会社の言う通り汗をかく」ことができなくなってしまうので、まずは朝礼での「会長のお言葉を復唱」から始まり、大部屋で管理職も一般社員も押し合いへし合い、ランチも一緒。アフターファイブは残業組と新聞でも読みながらつきあうグループが日替わりで交代し、そろそろ引け時だ、となるとなぜか会社の経費で買ったカラオケセットを持ちだして歌いだす。うまいへたも序列が決まっていて、だいたい何人目で歌を小休止して面白芸(かくし芸)をやりましょう、と予定調和が続き。さあ会社を出たらこんどは居酒屋で。。。。と家に帰って来ても、ろくろく寝る間もなく、服を着替えてまた出社、という要するに「会社しかない」状況に誘導されています。

こういう会社は「仕事に決定的な重要性を持つツール(コンピュータ)」を社員に渡し、自宅に解放することはかたくなに拒みます。新型肺炎で、いやいや在宅勤務を許可したけれど、肝心の仕事の必須ツールはわたさず「各個人の自宅のパソコンを会社のシステムにあわせろ」となっています。昔の内務班(軍隊)で「貴様ら自分の体を服に合わせろ(ファッション)」と言っていたのと同じかもしれません。

私用パソコンではシステムへのアクセスなど限りがあるので、結局「自己申告で」出社する日も増えていったりします。自宅にいる日でも、連日「リモート飲み会」となり、こんどは画面にうつる自宅の背景がみんなと違ったら。。。と背景がうまく隠れるソフトなどを必死で導入する羽目になります。

たまらず「やっぱり自宅勤務なんてだめだあ!すべてそろっている会社でみんなと一緒にさせてくれえええ!」と叫ぶ人もいるようですが、はっきり言って社畜になっていないか考えた方がいいと思います。。。。

リモートワーク・自宅勤務は、労働と収入を見直す重要なきっかけかつ進歩だと理解しています。すべて自宅で分散して、とも行かず、マザーコンピュータとして機能する物理的な会社は存在し、週のうち1回か2回はアクセスのため出社。ソーシャルディスタンスの維持のため会社自体は実は閑散としており、また各分野の個人がパートナーシップを結ぶのが会社なので、つながりも横方向のフラットなものとなり「上司が馬と言えば鹿でも馬という会社」はなくなっていくと考えます。そのためには、フラットでつながる各個人の自覚が必須だとはおもいますが。。。。

ではでは。

Posted by 猫機長
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日本剣道に見る成功法則のエッセンス

日本剣道に見る成功法則のエッセンス

意外に反響あった成功法則の記事。いろいろ具体例をあげて説明しましたが、要は「成功する原因が発生すれば、成功という結果が来る」。成功する原因はどう発生させるの?については、詳しくはこの記事をじっくり読んでいただくとして、一言で説明するとすれば、

「やるべきことを、やるべきときに」実行する、

これにつきます。

例によって剣道の経験から説明します。でも、リピーター読者のみなさんはすでにお分かりかもしれませんが、この説明は生活、仕事にも通用するものです。

剣道の大会では、優勝すること、勝つことが「成功」です。でも優勝という形での「成功」は一人しかつかめません。

で、成功できない大多数の選手が何をやっているのかというと、試合開始とともに猛然と竹刀を振り回す。あるいはひょいひょい逃げ回るだけで攻撃できない。ぽちんと小手に当てて逃げちゃう、など、要するにだれも「有効となる一本」を打てていないのであわれ敗退してしまうのです。

もうおわかりかと思いますが、この場合「有効となる一本」が「やるべきこと」です。

そして、有効となるならないの決定的なポイントが「距離」だったりします。剣道の世界では「間合い」と言いますが、こんな江戸時代の言葉を使うからかえってわからなくなったりしています。

要するに「自分の打突が姿勢正しく気勢鋭く気合充実して相手の打突部位にびしっと当たる距離」です。

でも、圧倒的に多数の選手が、当たるはずもない遠くから姿勢をめちゃめちゃに崩して竹刀を振り回しています。そのほうが安心だからです。

この「安心の罠」を乗り越えて、危険な相手の懐に飛び込み、自分の距離をつかんだ!「打つべき時に」「打つ」これができれば優勝です。ははは

理屈はすごく簡単です。ではなぜ「安心」に逃避してしまい、この簡単なことができないのでしょうか。

そこを説明しつくしたものに「日本剣道型」があります。一本目から七本目まであります(大太刀の型。別に小太刀のもある)が、特にエッセンスを詰め込んだのが三本目までで、一本目が距離(間合)、二本目が正中線、三本目が中心、そしてこの三本がセットで根幹となっていますが、距離だけでも十分成功達成について理解可能、ということで、いってみます。

日本剣道型 一本目

図解のために、以前の記事「床に聞きなさい」で登場した「ぴよちゃん(左)」と「おじいちゃん先生(右)」に再登場してもらいます。剣道人でなくてもわかりやすいよう、絵柄や説明はかなりデフォルメ?しているので、ご了承を。

さて、剣道型一本目は、中段で切っ先3寸が交わるところから両者5歩小さく後退してスタート。上記の図の状態です①。

想定としては、何らかの理由で切り合いになったが、できれば流血を避けて、相手に「参った!」と刀を引かせたい。しかし、どちらも降参の意思はなく、拮抗した状態が上の図です。

さて、「負けたくない!斬られたくない!死にたくない!」のプレッシャーに耐えられなくなってきたぴよちゃん。中段でのプレスの掛け合いに堪えられず、「強いんだよ!降参した方がいいよ!」とおじいちゃん先生に脅しをかけます。これが下の図。

左足をぐっと前に踏み出し。上段に構えます②(左諸手上段)。

なにげに中段に構えていたおじいちゃん先生は、「ぴよちゃんぜんぜん怖くないよ」と、なにげに右足を踏み出し、自然に「右諸手上段」に構えます③。(下の図)

おなじ上段でも、炎のような、でもカラ元気でハッタリの、大げさなぴよちゃんの上段では、おじいちゃん先生の穏やかで控えめな、でも自然で隙のない上段にすでに負けており。

でも降参できないぴよちゃん。えーい!ままよ!とおおきく踏み出し、おじいちゃん先生の頭(実際は拳)を狙って、大きくふりおろします。「やー!」

④この図がエッセンス

空振り。ほんの少し後退し、小手を上げてなにげにぴよちゃんの打ちを抜いたおじいちゃん先生は、大振りで前のめりに体制を崩し、動けなくなってしまったぴよちゃんの、がらあきになった頭の5センチ上に、上段から刀を振り下ろします。「とー!」⑤

勝負あった!

おじいちゃん先生は、そのまま切っ先を下げていきます。たまらずぴよちゃんは後ずさり。おじいちゃん先生の太刀の切っ先はぴよちゃんの眉間のすぐ前で止まります。⑥

勝負あった!

おじいちゃん先生は、さらに上段にのびて、勝ちを知らせます⑦。

くどいぞおじいちゃん先生!

流血沙汰にならず勝負がつき。両者中段に戻ります⑧。

おつかれさまでした

一本目の学び:「距離を間違えると、姿勢を崩すほど踏み込んでも勝てない」

すごいシンプルですね。でも、エッセンスの図④を見ると、ぴよちゃんとおじいちゃんの間の距離はおんなじ(一定)で、有意な身長差があるわけでもありません。じゃあなんでぴよちゃんは空振りして、おじいちゃん先生はさくっと当てたのでしょうか。

その秘密が①から③までに凝縮されています。つまり、距離といっても人と人の距離なので、体格差以前に、かつ同じ距離でも、勝っている人の距離は適正であり、負けている人の距離は遠くなってしまっているのです。つまり、物理的な距離ありきではなく、勝って距離を引き寄せることが重要であり、これを剣道では「技前」「打って勝つな、勝って打て」と教えています。

さて、竹刀剣道の大会だと、打たれても負けちゃった、ですみますが、これが「竹刀の代わりに真剣で、防具はなしね」という大会があったらどうでしょう。

優勝した人だとしても、指の1本や2本はなくしているでしょう。胴を切られて、腸をはみ出させてもがき苦しむ人、脳天を割られて地面を這いずり回る人、斬り落とされた自分の右手を左手でつかんで、茫然と眺める人。。。。など、まさに凄惨な場面になると思います。

もちろんそんな大会なんてないし、あっても誰も参加しないでしょう。ははは

でも、言いかえれば、竹刀だったら斬られて血まみれ、もがき苦しまないからいいや、といい加減にテキトーな技を繰り出し、真剣だったら絶対やらないようなその場のノリで竹刀をぶんまわし、勝った!ラッキー!、負けた!家帰ってラーメンにしよっと、となっていないでしょうか。くどいですが、真剣だったらラーメンどころか自分が刺身になっているところです。

そしてまさに死屍累々の凄惨な修羅場を生き残ってきた人たちが後世に伝えてくれている「絶対負けられない真剣勝負で勝つ鉄則(成功の法則)」が剣道型だったりします。

理屈として「刀の届かない距離から切ろうとしても豆腐一丁切れません」なんて言われなくても明らかですよね。。。

でも、真剣をもって構えあったとき(成功が必要だ!生活がかかっている!というとき)、この正しい距離から撃つ。「やるべきときに、やるべきことを」ができる必要があるのです。

できなければ死にます。

江戸時代の人たちが型稽古をやるときは、まさに「これが真剣だったら」と恐怖におののきながら練習したことでしょう。その集大成である日本剣道型も、真剣勝負を想定すればへたな竹刀稽古よりよっぽど勝負に強くなる稽古になるのです。

もしぴよちゃんの立場だったら?そして、おじいちゃん先生のように、おだやかに勝つことができるだろうか?と考え抜いて、稽古した結果、そうか、この型にでてくる攻め合いは、結局「距離の獲得」を体得するための道を示していたんだ、と気づきます。

これは理論を理解したということではなく、生存のための法則を体得した、ということです。

「距離」という言葉は誰にでもおなじ意味を持ちます。でも、その言葉の意味を本当に体得しているかな?自問する日々です。日々修行ですね。。。。。

最近、わかりやすく成功法則を説明するサイトなどすごい情報源がたくさんありますが、インスタントに理解できた!という罠にはまらない必要があると思います。

「しかり、成功への道はある」。でも眺めているだけではだめで、試行錯誤しながらも進んでいく必要があるのです。竹刀剣道みたいな場面では、どんどん打たれて学びましょう。そして真剣勝負の場面では、絶対勝つ勝負だけをしましょう。

というわけでおしまい。

ふふふ尻切れとんぼだったかな?えらそうですみません。ではでは。。。

Posted by 猫機長