忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

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忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

さて、前回は自分探しに成功し、顕在意識の自己は本来の自己の背中に乗っかってほのぼのとお家に帰り。しかしハッピーエンドとはいかずまだお話は続くのでした。要するに十牛図は禅仏道の指南書であり、解脱するまでは終わりにさせてくれないのですね。。。

そこで忘牛存人。

人は存在し続けます。考える葦である人間は、お家の軒先にぽけっと座って、これまでの奮闘を回想します。そもそも世間に埋没させられてしまい誰だかわからなくなってしまった自分を見つけ出しに旅に出たS1.1.こと。果てしない旅の末、実は目の前に「牛」はおりS1.3.。「その存在を知ってはいたが気づくことのできなかった自分」を、ついに思い出し、自己実現(自己究明)を達成S.1.5.した。。。というところで、意識はぽけっと座っている自分にもどります。

牛はもういません。というのは嘘で、座っている自分の中に溶け込んでしまっているので、見えなくなっているのです。

前回までは、顕在意識と潜在意識、六識と阿頼耶識、が人と牛、という対比で存在していて、両者結合のシンボルが「騎牛帰家」の図でした。

そして、お家に帰る過程で、結合とかいう以前に人も牛も自分という個人意識の構成要素だった、ということを実感して、自分と自分でないもの対比の世界に生きている人間S1.3.は、「牛」は自分であることを知り自分の中にとりこんじゃうのでした。

仏教用語でいえば、自他を区別する分別智から、みんなおなじだよ、わけられないよという無分別智へのスタートが始まったということですね。まだこの段階では軒先に座っている自分はいますが、この自分はその他のすべてから隔絶した存在ではなくなり、牛を通じてすべてとつながっていることを既に自覚しているのです。

そして、実は軒先に座っているのは自分ではなく牛だった、ということに気づき始めます。つまり、自分は実は神だった、という第一人称単数(ぼく)主体から、神が実は自分だった、に移行し、さらには神は自分を含むすべてだった、という第一人称複数(ぼくたち)に変容していきます。

ううむもっと楽しい書き方はないかな。。でもここから先は本当にシビアな解脱の世界に入ってくるので、どうしても難しい語句がでてきてしまいます。

牛探しの段階では、人はまだ「現象界(顕在意識の世界/見かけの世界)」に浸っており。牛という「深層意識・真実の世界へのとびら」との邂逅を通じて、現象界で認識しているのは実は幻想であり、映し出された陰に過ぎず、その影をつり出す根源である「原初の光」がある世界、つまり「実相界」があることを知った以上、実相界まで突き抜けないと旅は終わらないということなのでしょう。

西洋人も似たようなことを言っており。

人々は、洞窟に閉じ込められているようなもので、外の世界を知らないために、外界から差し込む光による影だけが現実のものとして映る。すなち、人が見ている現実は、イデア(真実)界の影にすぎないのだ、というのです(プラトンの説)。

人はこのステップで気づき始めます。自分が認識していた牛は、自分が認識している範囲での実在であり、その実態つまり実相界からの視点では実は写し絵、幻想だった、ということは。。。その牛である自分も、実は実態のない幻想だったということになります。さてこれを実感できた人(ぼくはとても実感できませんははは)は、そうか自分は生きているわけでも死んでいるわけでもないんだな、そんなのどっちでもいいやということになり、ついに解脱の最終段階に進むこととなります。ではでは。

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