牧牛(ぼくぎゅう)

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牧牛(ぼくぎゅう)

前回までで十牛図のお話のほぼ半分が終了。後半はいよいよ大悟(覚醒)の世界への旅立ちと、人間世界への帰還そしてひとびとへの還元へと進んでゆきます。

前回まではなんとか道つながりで「じっと座禅ができない人のための『動き禅』・剣道」や「おっちょこちょいの人のための瞑想・弓道(ごっこ)」での体験にこじつけて説明してきました。スマートシティに生きる現代人と古代の悟りの世界をつなぐ要所要所の「小悟」のイメージを記載できたか?みなさんの何かのご参考になれば幸いです。

さて、第5図から第10図は、もはやこれを書いているぼくや、読んでいるあなたの理解を超えた世界になってしまい。といってわからないからいいや、と投げ出さず縁覚、つまり十牛図を知って進化の縁を得(覚え)たとプラスに解釈してともかくつづけていきましょう。

*なお、実は第1図から第10図まで単に連続しているのではなく、それぞれの図のレベルに応じてその他の図の気づき・内容も含んでいるそうです。つまり、第1図の人でも、第1図なりのレベルで第8図の気づきは得られるということですね。一方ひとつづつの図をクリアしてゆくうちに、いつしか本来の第8図の境涯に達する。そのとき振りかえる第1図は、新米の時の第1図よりは進化している、ということかもしれません。

で、牧牛です。

悪戦苦闘、艱難辛苦、臥薪嘗胆、ともかくものすごい奮闘の末、前回では牛を捕まえ、ともかくも逃げないように手綱でひっつかまえておくことに成功しました。

前回の段階では、牛も人も「未知との遭遇」であり。牛も暴れましたが、人のほうでも牛に暴れさせるようなKYな対応をしていたのかもしれません。

で、人も牛も疲れ果てて、互いにまじまじと眺めてみたら、あれ?こいつそんな悪いやつじゃないじゃん?ということに気が付いた、というのがこのステップ。

中国の古書に「易経」というのがあり。現在では占いの要素が強いですが、人が遭遇しうる様々なシチュエーションでの対応について説明してもいます。

易経の一編に「火沢睽(かたくけい)」というのがあります。その意味は「嫁さんと姑さんがけんかをしている」というもの(なんじゃそりゃ、ははは)ですが、その最終進化(いわゆる上爻)で「泥まみれの豚と鬼が車に 載っている。最初は弓を引いて射ようとするが、後には弓を下ろす。相手は敵ではなく求婚しようとして来たので ある。進んで雨に流せば吉」と説明しています。つまり、前方から恐ろしい化け物と幽霊みたいなのがやってきたので、こわいよー!と思わず弓を引いて身構えたが、近づいてみたら全然敵意はなく、分かり合える仲間だった、ということですね。十牛図の場合、牛も人も仲間以前に実は一体だった、というオチになるのですが、それは今後の進展となります。

飛行機つながりで、Eddie Rickenbackerという人がおり。第一次大戦時の米軍戦闘機乗りですが、まさに戦争が終わった日、前線を見にひとっ飛びしたくなり離陸しました。

いつもは機銃を打ち上げてくる塹壕網の上空に達したとき、生涯忘れえない光景を見たそうです。

昨日までは互いに小銃を撃ち合い、飛び交う砲弾に当たってもがき苦しむ人。白兵戦になって、銃剣、最後はスコップで殴りあい血まみれになって倒れていく人たち。そんな凄惨な場面ばかりだったのに、戦争が終わった今日は、敵味方の兵士が塹壕から走り出て互いに抱き合って喜んでいたのです。

もう小銃を撃ったり、爆弾におびえなくていいんだ!そして何より、昨日まで敵だったドイツ軍(米軍)も、流血や死ぬことを恐れ、殺し殺されなくてすむ終戦(神は死んだFinancial3.2)を喜ぶみんな同じ人間だったんだ!

わあああーい!と入り乱れてはしゃぎあう両軍の兵士たちの上をパイロットもわくわくと飛んだことでしょう。

で、友達になった人と牛。手綱はむりやり引っ張るのではなく、自然と人が牛に「こっちに行くよー」と示すのみになっています。

しかし、この段階では、KYにならないために人は細心の注意を払う必要があり。たとえば「草食動物に後ろから近づくな」という言葉がありますが、これは牛や馬にとって視界の利かない後方から忍び寄るのは肉食動物つまり「敵」とみなしてしまうからです。「牛くん、前から近づくぼくはライオンじゃないよ。怖がらなくていいよ」というふうに、こうして人も牛も互いに順応していく、そういうステップということなのでしょう。

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