見牛(けんぎゅう)
さて、古今の書物を勉強して、牛ってなに?というものが頭では識別できるようになってきました。
しかし、それはまだ誰かの経験を聞いているにすぎず。理論もいいけど実体験したいよねー、と願うようになります。でも熱望すればするほど努力は空回りし、こんがらがってしまいます。
道つながりで「弓道」というのがあり。段位目録とか持ってないのであくまで「ごっこ」のレベルですが、これがなかなかたのしく、かつアセンションした武道だなと思っています。
さて「みんなの弓道」を読んで勉強した通り、矢つがえ、胴づくり、引き分け、会、離れ、ざんしん。。。。とやろうとするのですが、やれ左手の握りがつぶれちゃった、右ひじがのばせないでちぢんじゃった。。。など、必死になって正しくやろうとすればするほど、どんどん姿勢は崩れてゆき、もちろん矢は的からとんでもない遠くにそれて「ノーコンピッチャー」になってしまいます。
格納庫のスペースを利用して瞑想(弓道)ごっこ
特に的。書物には「的の右半分が弓に隠れる半月のかまえにしましょう」なんてさらっと書いてあるのですが、これがぼやけて全然見えない、あるいは二重に見える、弓の中に隠れてしまう、弓の中に透けてみえる、弓からものすごく離れた場所に見えてしまい狙いがつけようにもつけられない、など満足に見ることができないのです。ぐおおー!と力任せに何十射とぶっ放してゆくと、弦で耳を引きちぎりそうになったり、腕を打ったり、ひでぶっ!とのたうちまわります。それでも無理やり続けると、矢は的の周りに、まるで的を避けるがごとく外れるようになったりします。
ところが、1か月ぐらいブランクがあった後に、まあ当てるなんでどうでもいいや、弓道ごっこに戻れただけで幸せ、というかんじでやると、あれ、的が見えるぞ?弓と半月の位置で、的の中心の白丸がピタッと静止して見え、体が的の中にぐっと入っていく(的が大きくなっていく)。そのままぽけっと弓を押し(引き)つづけて、右手親指が抜けそうになる寸前?にぐっと両肩を矢筋にのばし、右ひじは的の反対側、そして左こぶしを的に伸ばすと、ぱちん!と弓が発射され、どしん!と的のど真ん中に当たったりします(弓がえりとか残身とかはものすごく不安定で毎回変わっています、ははは)。
すなわち、本来自然に見えるものを、見ようとする邪念が深まるほど、かえって見えないようにブラインドを作ってしまっていたのです。眼、耳、鼻、舌、身、意識(いわゆる六根)にブラインドがかかっていると、目の前に牛がいても見えなかったりします。周りのすべては牛だったのに、牛だと気づくことができません。
ちなみに、宝塚ですごい劇(サン・テグジュペリ(Blog35))があったのでリンクしときます。「大切なものは目にはみえない」。
六根清浄で真実がみえたぞ!視程にとらえた牛をつぎはいよいよつかまえに行きます。
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