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アングルとブロックチェーン

ここでいうアングルというのは「角度」のことではなくて、ジャン・オーギュスト・アングルという世界屈指の写実画家のことです。わかりやすく言えば「美術界の池上遼一」ですね。

あれ?

あああごめんなさい、池上遼一は、1970年代から少年漫画界で活躍した作画家で、「史上最高の画力」と言われる人です。

https://store.shopping.yahoo.co.jp/ebookjapan/b00060004179.html#

まだ現役だった?池上遼一

 

ううむかえってこんがらがってしまった。

気を取り直していってみます。

さて、アングルさんが活躍したのは、古典主義・ロマン主義がいがみ合っていたフランス。自民党と民主党のいがみ合いみたい、なんて書くとまたこんがらがるので、とりあえず、アングルは当時世界の美術界をけん引したフランスアカデミーで「この人が代表」と時の有識者・リーダーたちから認められた、押しも押されもしない至高の画家です。

いわば「海原雄山」はい漫画との比較はこれでやめます。

で、アングルさんの代表作に「ホメロス礼賛」というのがあり。

一点の曇りもない青い空。壮麗、厳粛な古代ギリシアのパンテオン(神殿)を前に、勝利の女神から王冠を授けられる詩人ホメロス。

すぐ下の赤い服を着た女性が「イリアス」その隣の緑の服の女性が「オデッセイア」、すなわちホメロスの代表2作品の擬人化です。

でも、作者のホメロスばかりもてはやされているので、2人の作品はふてくされています。ははは

この3人を取り囲むのは、歴史上の世界の賢人偉人。

例えば、

日本の山本芳翠というすごい画家に、すごい影響を与えた世界の画伯ニコラ・プッサン

ブルボン朝時代の俳優・劇作家、モリエール

向うを向いたスキンヘッドのおっちゃんはソクラテス。プラトンとなごんでいます。

盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家・ 建築家ラファエロ(一番手前)、その横は古代ギリシアの文化人サッフォー、さらに隣がアテナイの政治家アルキビアデス。

「神曲」のダンテもちゃんといました

カモンエスも発見。ポルトガルの大詩人であり、ブラジル文化にもかかわりの深い人です。

他にもミケランジェロ、シェークスピアやモーツアルトといった、そうそうたる文化人や、古代ギリシアの賢人が多数。ダヴィンチがいないのはなぜだろう?

1人1人は、下のリストでご確認ください

へええーすごいな。

この絵を見ていると、知的で高尚なふんいきにひたったりします。

でも、この「あたかも知的探求をしているように見える」という所に、時の支配者がアングルの名声を利用して一般市民を白痴化しようとするブラックな策謀が隠れていないでしょうか。

知的好奇心、というとこちら

アルノルフィーニ夫妻

 

なにげにおしゃれな絵ですが、しかし「脱ぎ捨てられたサンダルが、神聖な結婚の場をあらわす」のを始め、犬くんやカーテン、ろうそくに至るまで本当の意味で知的な探求の世界に引きずり込んでいく、すごい絵です。

この絵における無数のアレゴリーについては、以前の記事で提示しましたので、そちらをご覧お願いします。

つまり、「ホメロス礼賛」は、たんに「有名人が集合している」だけで、なぞ解きもへったくれもなく。

82年ブラジルチーム

この写真を見れば、誰でもバルジル・ペレスにソクラテス、セルジーニョにトニーニョ・セレーゾ、ジコにジュニオル。ファルコンもいるぞ。。。。と一発で分かると思いますが(*)、「ホメロス礼賛」の「知的なたむわれ」とは、実はこのていどのレベルの話です。

(*ウソです。サッカーマニアならわかる人もいるかもしれん)

「ホメロス礼賛」が描かれた1828年と言えば、フランス革命の大動乱いまだ冷めやらず、フランスは世界を相手に大戦争をおっぱじめた結果、ロシアなどの逆襲にあい、ナポレオンは島流しに。ウイーン体制にすがりついた保守反動派が台頭するなど、混乱は続く一方で民衆の貧困は全然解消されず。

でもそんなひずみなんてぜんぜんないです、爽やかな青い空の下、賢人たちが和やかに談笑してます、それがおフランスです。というのがこの絵である。

高尚な古代ギリシャの神殿に、著名な文化人を並べ立てたので、いかにもハイレベル・ハイソサエティ―の雰囲気になっていますが、実は「お手軽に、明るく。すべてがうまくいってます」みたいな、マクドナルドのキャッチコピーか!になってます。

こういうのを、ドラクロアが目ざとく見抜いて「不完全な知性の完璧な表現だ」などと痛烈に批判しています。

ドラクロア「民衆を導く自由の女神」

こちらは1830年に、当時の動乱(七月革命)を描写しており。権威側が「ホメロス礼賛」で空想の世界に誘導しようとしているのに真っ向から対抗しています。

さて「ホメロス礼賛」と同じしらじらしさを感じてしまった現代の写真があり。

出展 https://number.bunshun.jp/articles/photo/846913?pn=3 ©Getty Images

東京都知事がにこにことアマチュアスポーツの旗を振っている。

たしかに、この写真が撮影された時はコロナなんて考えられもしなかったけれど、いつまでも日本の政治家はオリンピック絶対開催だ!みたいな姿勢を崩さず。開催するならどんな風にやるんだ?という具体案を示すわけでもない一方で、外国からの選手はどんどん入れても巣ごもりはつづけましょうとか、相変わらずアクセルとブレーキを同時に踏んでいます。

「爽やかな青い空の下、日本ではすべてがうまくいっています。今日もとても良い天気です」とマクドナルド的プロパガンダを繰り返す日本の指導層。日本の市民は、「そのとおりです。日本には何も問題はありません」と、コロナのみでなく、日本の経済社会全般にのしかかっている恐るべき課題から目を背けていないでしょうか。

その課題の名は「ブロックチェーン」

それ自体はニュートラルなIT技術ですが、使われ方によってやばいことになるかもしれない。

たとえば「ビットコイン」

ビットコインは、法定通貨のような政府による介在がなく、ブロックチェーンを構成するコミュニティへの信用が取引の裏付けとなっている。

つまり、「もう法定通貨なんて信じないよ」と、資本主義国家の根底を揺るがしかねない事態が発生しているのです。

フランス革命で、労働者すなわち弱小市民が、資本家側の王や貴族をギロチン送りにしたように、国や中央銀行に発行を依存しないビットコインは、政府主導の金融システムを「ギロチン送り」にするかもしれん。

問題は、その後です。

フランス革命では、暴力的な格差の是正はあったが、資本主義は瓦解せずにすみました。

しかし、後発のロシア共産主義革命では「資本主義そのものを否定してしまった」ため、適切な経済戦略を決定できなくなり。NEPだのなんだの頑張っては見たが、的外れの締め付け(黒いボールペン)に走り、労働者を酷使するのみでコストに見合った生産がなくなってしまい。ブルジョアが残した富を食いつぶし滅亡しました。

政府や企業を介在しない「政府そのものを否定してしまった」ビットコイン経済の時代になったら、各個人が自分自身で身を守らなければならなくなり。

昨日4万ドルだったビットコインが明日40万ドルになったとして、本当に40万ドルに換金してくれるか?ブロックチェーン技術によって、ビットコインを買った、売ったという記録は改ざんできないけれど、取引相手がその履歴を十分承知のうえで、「でも払わないよ」と言えばそれでパーです。国家の統制を受けない以上、取引所(個人の場合もある)があなたをだましているのか、はたまたその逆なのか、「当人同士の問題でしょ」と警察含め政府の組織は立ち入る根拠がなくなってしまうのです。

ビットコインは、なりゆきによっては共産主義よりももっと恐ろしい弱肉強食の世の中をもたらすのではないかと危惧します。

*4月26日追記。世界の大規模金融機関がビットコインを投資資産として認め始めています。したがって、誰でも参入できる投資ツールに変化中。(こちらの記事参照。でも超リスク投資なのでご覚悟を。)

*6月13日追記。エルサルバドルがビットコインを法定通貨として認可。通貨というより送金ツールという位置づけらしいが、独立国家の正式な通貨になるという恐るべき進展になっています。

ビットコインなどの技術革新について、「ホメロス礼賛」みたいな表面的な情報に安心せずに、「アルノルフィーニ夫妻」のようななぞ解きをして、本質を突き止めるべき時代になったのかもしれませんね。

ではでは。

 

Posted by 猫機長
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ブギウギ考:日本のガラパゴス脱出にむけて

ガラパゴスとは対極のコスモポリタンなアメリカ。そしてその名曲In the Mood.

 

あれ?これってブギだっけ?ジャズだっけ?この記事で明らかにします。

で、記事スタート。

日本人がいやおうなくグローバリズムの波にのまれた明治時代。ちょんまげを切り落とし、刀を差すのはやめましょう、という未曽有の大変革ながら、列強の血も涙もない帝国主義に脅かされ、「変革しないと死ぬかも?」と必死に「文明開化」を推し進めたのでした。

機関車だの鋼鉄船だのについては、理系の話でもあり。もともと数字の計算は得意な日本人なので、すんなりと吸収し、大正時代までには列強も驚く水準に発展できた。

一方、思考、美意識、哲学といった、人文系についてはどうだったか。「人の上に人を作らず」というのを一生懸命理解しようとしながら、やっぱりご飯にみそ汁だねー、と日本古来の文化も捨てきれず。

こうして、今日まで続く日本的な西洋自由主義文明が生まれたのでした。

明治の知識人たちは盛んに洋行して、西洋の文化を学び。

山本芳翠という芸術家もその一人で、ううむ、西洋人もあっと驚くような西洋画をかいてやるぞー、と発奮し。

西洋人に認められるためには、西洋絵画のヒエラルヒーにおける最上位の「神話・歴史」を、西洋人も認める画力で描き上げよう、ということで、まずモデルとなる絵を選定。

ニコラ・プッサンの「ネプチューンとアンフィトリテの勝利」を選びました。ちなみにニコラさんはなかなか有名な画家(バロック時代だけど画風は古典主義?)で、これも有名な新古典主義のアングルさんによる「ホメロス礼賛」にも友情出演しています。

(*ほかにも、ラファエロ「ガラテアの勝利」1511年や、ブグロー「ヴィーナスの誕生」1879年、そしてフランソワ・ブーシェ「ヴィーナスの勝利」1740年の焼き直しなど諸説ありますが、ここではプッサンさん説をとっています)

ネプチューンとアンフィトリテの勝利(1634年)

 

さて、この申し分ないギリシア神話の大作に、勝るとも劣らない日本の絵画にするためには、やっぱり和魂洋才だ!と日本のとある神話を選んで、勇躍作成。その結果が。。。。

「浦島図」でした。

浦島図(1895年)

 

ううむ、「浦島太郎」は神話だったのか?

ピンクという微妙な色の着物を着ているのは、ブラジルのストリートチルドレンではなく、カメと玉手箱というアトリビュート(*)によって、浦島太郎であることがわかります。

*アトリビュート:持ち物。白百合を持った青と赤の服装の女性がいたらマリア様を表す、など。

*アレゴリー:寓意。抽象的な概念を具象化したもの。サイコロの絵は幸運、頭蓋骨は死、とか。

そして、そのあとを、白装束で髪を振り乱して追ってくるのは、精神病院を抜け出したお姉さんではなく、乙姫さんだということがわかります。

うううむ!あっけらかんとした「ネプチューン」にくらべ、はっきり言ってなんちゅう気味の悪い「浦島」じゃ!と一瞬引くように見えて。

そのおどろおどろしいオーラに、おもわず引き込まれるように見入ってしまうのでした。

アニメの美形キャラに馴らされた素人の目から見れば「これは我が家の居間にはかざれないな」ですが、それでも見る人に衝撃をあたえ、ひきつけて離さないエネルギーを、本当に絵を知っている人たちは「畸形の美術」といって、国宝級とみなしているそうです。

ちなみに、「裸婦図」という絵があり。

裸婦図(1880)

 

この、欧米人画家の絵としか思えない絵も、山本芳翠の作品です。つまり、浦島図のおどろおどろしさは、欧米人の絵みたいにしようとしたのに、失敗してそうなっちゃった、のではなく、わざそうした、ということに注目。

なお、ぼくが飾りたいなーと思う絵はこちら。

脱線しましたすみません

 

さて、日本の第2のカルチャーショックは、終戦とアメリカ進駐軍の乱入。

理工系の出来事では、テレビ、洗濯機、冷蔵庫が市民の家庭に導入されました。

一方感性の世界では、アメリカのアートが日本を占領し。

このうち、ブギというのがあります。

 

進駐軍が日本人を洗脳しようとしたのか、はたまた日本人の方から「軍国主義なんてまっぴらだ!自由なアメリカの文化を学ぼうぜー」と積極的に歩み寄ったのかはわかりませんが、空前のブギウギブームが起こり。

東京ブギウギ

ううむ、ブギ?まあ、ワルツとかじゃないし、たしかにブギっぽいよね。。。。

 

ホームランブギ

元気いっぱい!大好きな「ホームランブギ」。でも、ブギちっくじゃないよね?進駐軍の命令で「ブギ」という名前をつけなきゃならなかったのか?

 

買い物ブギ

ここまでくれば、いうことなし。

(歌詞に現在では不適切、とされる言葉があるのでリンクできず。でも大好きな曲です。)

 

ということで、思い切り戦後のポップアート開幕したのでした。

山本芳翠との違いは、刹那的なキッチュそのもの、でも人当たりが良くてあっという間に国民の間に広まった。

焼け跡からの復興へとても大切な心のよりどころとなった重要なムーブメントだったと思います。

さて、ここまで読んで、ぼくが日本の芸術をけなしていると思った人はいないでしょうか。

そう思った人は、日本のガラパゴス化に気づいていない人です。あるいは、知らないうちに、日本のガラパゴス化を促進している人です。

ガラパゴス化というのは「伝統墨守唯我独尊」を悪い方に突っ走った結果として起こる現象です。

そもそも「ネプチューンとアンフィトリテの勝利」は美しいけれど「浦島図」はきたらなしい、なんてレッテルは誰が貼れるのでしょうか。

また、「買い物ブギ」は「Boogie Woogie Bugle Boy」とかけ離れているから、ブギじゃない、なんて誰が言えるのでしょうか。

要するに、芸術はこうじゃなきゃ!とか、ブギになるためにはこうでなきゃ!という固定概念にとらわれていくと、文化の混血現象であるグローバリズムから取り残されて、ガラパゴスになってしまうぞ!ということを言いたいのです。

確かに、この記事で「浦島図」や「買い物ブギ」のことを茶化してはいますが、正しい!間違い!ということは言っていません。

言いたいことは、こうした「オリジナルとかけ離れているけれども、独立したアートが世界中で生まれており」「こうしたアートの相互理解がないと孤立してしまいますよ」ということなのです。

ブギとは似ても似つかない「買い物ブギ」ですが、日本ならではのポップアートなのです。

ナポリタンスパゲッティというのがあり。

スパゲッティにケチャップをかけるなんて、冒涜だ!という人は、脳みそがガラパゴス化している人です。

好きなら好き、嫌いなら嫌いで、そういうスパゲッティがあっていいじゃん?何がおかしいの?というのが今の世界なのです。

というわけで、

お寿司にしても、

①カッパ巻きみたいな手巻きですが、キュウリの代わりにイチゴ、海苔のかわりにクレープで撒いたやつとか、②照り焼きマヨネーズ(牛肉)をにぎりみたいにしたのとか、要するに江戸時代の人から見たら、ぎゃあああーとても食べられない―!なんていうのが世界中に伝播しています。ちなみに、①はフランス、②は日本で発明されたらしい。

①その名もMiss Pink。シャリがいちご色に染まっています。

 白いのはマヨネーズかな?

出展はhttps://rocketnews24.com/2016/03/22/725509/

 

②北海道牛の照り焼き寿司

出展はhttps://cookpad.com/recipe/3491298

 

一方で、

浮世絵みたいに、日本人のふつーの日常を版画にしていたら、その気はないのに芸術の本場で有名になったというのもあれば、新渡戸稲造みたいに、西洋人の言葉で武士道の解説書を出版して、大いに理解(尊敬)されたりとかもあります。

つまり、ガラパゴス化、国際化、なんて大上段に構える必要はなくて、自然にコンタクトしてくるようになった異文化、それがアニメ命の留学生であろうが出稼ぎ労働者であろうが、そういう人たちと一緒になって、ふつーの日常・常識を彼らにもわかる言葉で伝え、交流するうち、作り出されてくるなにか―それが音楽だろうが、お料理だろうがーを自然に受け入れられるようになれれば、知らないうちに日本自体がグローバルな国になっているのではないでしょうか。

いままで食わず嫌いだったお料理や絵画、今までの常識の外にあった考え方や表現を、少しづつ体験していけば、もっと世界の人々とわかりあえるようになれると思っています。

冒頭の名曲In The Moodはジャズですが、ブギが大切な構成要素になっています。いろんな国、いろんな民族の文化が構成要素となってまじりあい、In the Mood みたいなステキな「地球人の文化」が生まれたらいいなと思っています。

ではでは。。。。

Posted by 猫機長
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短文集です:お料理や仏教思想、軽飛行機などなど

いろいろブログネタを集めていると、一本の原稿としては短すぎるけれど、なかなか捨てがたいという短文が出始め。今回4つのショートストーリをまとめてみました。

 

 

その①:天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)

お釈迦様が生まれた時に発したということば。さすがに人間離れしたIQで、生まれながらに哲学していたのですね。

ところが「これほど誤解された仏教用語もない」そうです。つまり、つい「この世界で俺様だけが偉いんだ!みんなひれ伏せ!」と解釈してしまいますが、これは間違いで、もっと心温まる言葉なのだそうです。

まず、「我」という言葉が誤解の根源となっており。お釈迦様自身というより「人間(人類)」のことだそうです。

そして、「天上天下」は「世界(宇宙)」ですが、仏教から見た世界というのはすなわち六道(天界、人間界、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のことで、人はこの六道のどれかに必ず生まれ変わり。

六道のうち、天界では喜び(快楽)の欲におぼれて盲目になってしまい、覚醒することができず。そして修羅、畜生、餓鬼、地獄では、苦しみにもがき、とても覚醒どころではなく。

というわけで、覚醒できない以上はいつまでも六道の中でもがき苦しむのかというと、唯一人間という、喜び・苦しみの中間にいる存在のみが、仏法と遭遇することで、喜び・苦しみの無限の輪廻からワープして仏の世界へ進むことが可能だということなのだそうです。

つまり、

「俺様が一番偉いんだ!」というのではなくて

「宇宙の万物の中で、人間のみが、魂の次元上昇という尊い機会を得ているんだよ!」

という、善男善女を支援・応援している言葉だったのです。

へえー、すごいな。。。。(もちろんかなりの意訳ですけど。ははは)

ちなみに、次元上昇、進化、成仏、覚醒ってなんだ?についての、ぼくなりの考えは「十牛図」の一連の記事に書いてあるので、読んでみてくださいね。

 

 

②天は人の上に人を作らず

人の下に人を作らず、と続く福沢諭吉の有名な言葉ですが、こちらは見かけはすごくまっとうなのに、実はまっ黒な裏があり。

福沢さん言う通り、天すなわち、神なり主なりアラーなりは、人の上に人を作っていません。神様から見れば、人なんて「個体差はあってもみんな塵カス」ですから。ははは

問題は「天は」とあざとく言い放つところにあります。

士農工商の時代が終わったときの言葉なので、「もう日本はカーストなんてないぞー、みんな同じ、自由民権だー!」というふうに解釈され、確かにその通りですが、一方で、「天は人の上に人を作っていないけれど、人はいつでも人の上に人をつくれるよ」という恐ろしい意味が隠されているのです。

つまり、自由主義だ!という美名の裏で、人々が競争を余儀無くされ「勝ち組」「負け組」に分かれてしまうことを容認している言葉なのである。

この言葉の意味をあざとく理解し、「生きるとは勝つことだ」と血も涙もない生存競争に血道をあげた人が富や地位、権力を手にして繁栄して行き。一方で、ぽけっと「人はみんな平等なんだ。みんななかよくしようね」なんて受け取り方をした人は、下等国民に転落して段ボールハウス行きになってしまうのでした。

「人はおもいきり人の上に人をつくった」そして「下」に行ってしまった人は「無能」「怠け者」のレッテルを貼られて復活できなくなるという恐怖が、全ての原動力となってゆき。(欧州ではこの恐怖が先鋭化して、「ユダヤ人」「共産主義者」「ナチ」「敵対階層」などの差別や、強制労働の正当化につながった)。

でも、考えてください。首相だったら、普通の人より優れ、進化した人なのでしょうか。トランプさんだろうが、名無しのたい焼き屋さんだろうが、はたまた乞食の人だろうが、要するに人であり。

おなじ人間を、地位、職業や富などで序列付けしようとするから、勝ち組・負け組の世界が生まれてしまっているのです。

いよいよ「風の時代」に入っており、人は誰でも生きる権利があるんだよ、という当然すぎることが当然の実感として常識化する時代になるとは思います。ただ、現実化にはシンギュラリティ(AI技術革新)到来(2040年くらいか?)が必須で、それまでは、大失業時代などの恐ろしい「生みの苦しみ」が避けられないとは思いますが。

この辺をもう少しわかりやすく説明した「ベーシックインカム」関連の記事もぜひ読んでみてください。

 

 

③お料理

アメブロや、はてななどのブログを見ていると、みなさんおいしいお料理をたくさん掲載しており。

ぼくもまねしてみよう!というわけで「ナポリタンラーメン」いってみます。

ナポリタンスパゲッティがあるなら、ケチャップ基調のラーメンがあってもいいよねー、と軽いノリでぐぐって遊んでいたら、本当にあった!

出展はクックパッドhttps://cookpad.com/recipe/4380582です

 

で、さっそく持ち合わせの材料でまねしてみました。

まずはケチャップ。ウスターソースはないから醤油でいいや。砂糖、タバスコ、黒コショウ、粉チーズもないから省略。オリーブオイルは大豆油で代用。袋ラーメンのスープもチキンの黄色いやつだけどいいんじゃね?あとはもちろん味の素、ということで一通りそろえました。

まずはお湯を沸かすとともに、どんぶりに醤油、ケチャップ、スープの粉、大豆油をぶちこみ。袋も切ってラーメンを出しておきます。

鍋が沸騰してきたらラーメンをいれます。3分間待つのだぞ。。。

で、お湯を切った状態の麺。びしっと腰ののこるゆで加減が重要です。

そして麺とお湯をどんぶりに入れてかきまぜ、完成。

せいぜいブログのネタだねーなんて思っていたら、なかなかどうして、おいしいラーメンになりました。

あと余談ですが、ケチャップの賞味期限が去年の8月で切れていたことに気が付きました。まあ味噌やケチャップはもともと長期保存用の調味料ですけど、みなさんは賞味期限内に使い切ってくださいね。。。。

 

 

④フラップケーブルが切れちゃた

とある吉日、穏やかな空の中を軽飛行機でお散歩。

ちいさな飛行機で飛んでいます

 

とある農場の滑走路に着陸態勢に入り。フラップ1、2、と順調に下げてゆき、フラップスリーだ、とレバー引いたとたん

ぷちん!あっ!

ケーブルが切れた音が。

とっさにフラップあげ、ノーフラップの体制で着陸。

地上滑走しながら、フラップ1、2、3と上げ下げしたのですが、フツーに動くじゃん?

これはケーブルが寸断に至らず、切れかかっている状態だな、つまり地上滑走程度のほとんど風圧のない状況では上げ下げできるけれど、着陸速度でフラップに負荷がかかったらやばいね、と判断。

といって、田舎の農場の滑走路では特に修理ということもできないし、要するにノーフラップで行けば問題ないので、35分くらいの飛行でホームベースに帰ってきました。

で、ハンガーまでのタキシング中にまたがちゃがちゃ上げ下げしたら、今度は最大、フラップスリーの位置でぷちんと本当に切断してしまい、このポジションでスタックしちゃいました。

格納庫でケーブル再確認したら、機長席後ろのケーブル接合部分は問題なし。

ふだんはカバーがかぶさっています

フラップレバー(下の写真のハンドブレーキみたいなやつ)から、上の写真の接合部分まで伸びる単線でのケーブルのどこかが切れたらしい。これが各フラップに伸びる左右のケーブルのどちらかだったら、左右のフラップ角度に差が出てしまい、墜落なんてこともありうるのですが、その点はまずは単線の方で切れるように設計されており、問題なく飛行できました。

さっそく修理屋のお兄ちゃんに見てもらい。

フラップレバーとケーブルをつなぐコネクターが経年劣化で壊れちゃったということでした。ううむ定期点検ではOKだったはずなんだけど。

なんか頼りないコネクター。ううむ写真だどわかりにくいな

比較的軽微な修理でしたが、100ドルが飛んじゃいました。かなしいな。。。

ではでは。

 

Posted by 猫機長
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24時間戦えますか?死ぬまで現役やれますか?

「リゲインのテーマ」のお話ではなくて(関係はある)、この記事を読んでいるあなたの収入が、「今後こうなってしまうぞ!」というお話です。

ひょんなことから、2045年の未来よりタイムスリップして2020年の日本にやってきたロボットの「AIくん」。

とある開業医「猫医院」の一室で、院長さんとお話になりました。

AIくん「初めまして。2020年の日本はコロナ禍でたいへんですね」

院長さん「初めまして。いやいや24時間働けますか、ですよ。でも有給休暇も昇給もありゃしないけどね」

A「有給休暇?昇給?それってなんですか?」

院「AIくんは機械だからわからないんだね。人間の社会では定期昇給があって、誰が何年務めたか、どれだけ成果を上げたか、による給与の修正をおこなっているんだよ」

A「院長さんは、お医者さんなのによくご存じですね」

院「病院経営していると、院長の他に社長もしなきゃならなくてね。部下の査定がなかなかたいへんなんだよ」

A「部下のお医者さんの給与計算とか、残業管理とかそうゆうことが患者さんを診察するほかに生まれるということなんですね」

院「その通り。ぼくは人事管理、査定とかで、毎晩遅くまで大変なんだ。。。2045年ではどんな感じ?」

A「残業とかはありません。だって最初から24時間体制なんだもん」

院「えつ?お医者さんが過労死しちゃう?」

A「実は。。。。2045年には、人間のお医者さんはほとんどいないんです」

院「えつ?」

A「ぼくたちの仲間に「治療くん」というのがいて、病気になったか不安だ、診断してほしい、という人のお家のコンピュータを通じて、コンピュータのカメラやマイク、さらにはキーボードから打ち込んでもらう情報でたいてい診断できちゃうから、その場で治療法を伝えてはいOK、おしまいです。場合によっては「治療くん診断デパイス」をUAVで運んで出張診察もあります。」

院「ううう、では、いつも悩む人事考課もないし、そもそも人事部門や経理部門の存在が必要なくなる、ということなのか?」

A「院長さんのケースでは、人事部門はいらなくなりますね。院長さんの下で働いているお医者さんたちはみんな「治療くん」で代替できるので、給料も有給もなくなります。ぼくたちAIが24時間体制でアテンドするので、残業もありません」

院「人事コスト0で24時間営業ということだね!すごいコスト削減かつ利益倍増だ!」

A「病院は、入院施設のある大学病院みたいなのだけが残って、院長さんみたいな小さな開業医は、わざわざ物理的に病院を作る必要はなくなりますよ」

院「というと?」

A「院長さんは、自宅で「治療くん」の管理者になって、「治療くんクラウド」を通じた患者さんの診察状況をモニタリングする。そして、「治療くん」だけでは対応できない難病の人などを、大学病院とかにレコメンドするみたいなかんじになると思います」

院「ううーむすべて自宅のコンピュータにより、クラウドなどのITを通じたリモート操作になるということか。でも大学病院には医者がいるんだよね」

A「その数はすごく少なくなります。「移動型治療くんロボット」が病棟を巡回して看護師さんに指示をだして、患者さんの対応をしますから、人間のお医者さんは、「治療くん」のモニター役になります。でも、看護師さんや、介護の人たちなどはまだまだたくさんいますよー」

院「つまり、人の体を手に取って、物理的に手をたずさえて行う活動には、AIは介入できないということなの?」

A「おしめ取り換え、う◎ち清掃の「身体介護ロボット」とか、外骨格スーツみたいな補助具はできてます。でも患者さん、ご老人との触れ合いは人間の介護士ですねー」

院「ううむ、看護師の方が医者より上だ!と言われている気がしてきた。職にあぶれた医師が、大量にタクシー運転手になっちゃった、とか起きているのだろうか?」

A「全然大丈夫ですよーリストラだの、乞食だのそういうのは存在しない世界になっています。国民は、誰でも経済的な不足がなく生活できるよう、一律にベーシックインカムをもらいますから、ふつーの生活には全然問題ないですよー」

院「ううむついにベーシックインカムがきたか!要するに、上記で出てきたコスト0化と収益激増によって発生した余裕・余剰分が、税金になってベーシックインカムの財源になるということだな!」

A「その通りです。ぼくたちのお客さんとなる人間がお金を持っていないと、ぼくたちも困りますから。。。」

院「うううーむ、家内への給料配達人から逃れられると思ったら、今度はロボットのえさやりおじさんか。かなしいな」

A「鋭利な推理ですね。看護師さんにはない発想だと思いますよ」

院「そんなみえすいたお世辞で喜ぶ医者はいないだろうけれど、好意的に受け取っておくよ」

A「院長さんにお聞きしたいことがあるんです。むかし飲み会っていう儀式があったそうなんですけれど、どんなものだったんですか?」

オンライン飲み会でさえ、ハラスメント(ズムハラ)があるらしい

院「まさにいま君が言ったような心にもないお世辞を言いまくって、会社の中での自分の立場をよくするための課外活動だ」

A「ふむふむ課外活動ですか?」

院「話の初めに出てきた昇給にしろ、若い医者は「仕事しないおじさんが年功で高い金を貰っている」と憤るし、年寄りは「若いころにはもらえなかった賞与を、成果だのなんだのでどんどんもらいやがって」と妬む。そもそも何が成果で、なんでAさんがもらえてCさんがもらえないないんだ?とすさまじい闘争があるのだよ」

A「人間て大変ですね。AIだったら電源を入れて作動させれば故障しないかぎり1年365日24時間作動してます。AI同士で妬みそねみもないですよー」

院「というわけで、うわべはみんな「おはようございまーす」なんてさわやかにご挨拶しているが、裏ではすさまじいルサンチマンのいがみ合いがあるのだよ」

A「ガス抜き、説得等のために飲み会が必要ということなのでしょうか」

院「そうだ。さらには、本来ありえないゆがんだ事業を闇のうちに合意してしまうツールでもある」

A「国民が望んでいないオリンピックが、知らないうちに実施になってたとか。政治は料亭で決するということでしょうか」

院「まさにその通りだ。オリンピックは重要だが、何が何でもやりさえすればいいなんてものではないのに、政界・財界がトクをして一般市民は世界中からのコロナウイルスに晒され、我々医者は過労死か、患者からコロナを貰って死んじまうかという、そういうゆがんだ形での開催が我々の頭越しに決まってしまうのだ」

A「世界中の選手とかが得体のしれない変異株をもってくるわけですからねえ。世界同時開催の巣ごもりオリンピックとかにすればいいのにね。でもそれじゃビジネスとしておいしくなくなっちゃう」

世界各国で同時開催し、実況を世界中に配信する「在宅オリンピック」

院「脱線したが、同じ会社の仲間なのに背中から刺しあうような暗闘が起きるのも、結局いくら働いても給与が足りないからだ」

A「働かないと生きていけない、という体制だから、給料をもらうためなら、人は何をしても許される、となるのですね」

院「そこでだAIくん。2045年ではみんな給与はたくさんもらえているのかね?」

A「そこポイントですね。実は給与額は現在と変わらないですが、給与を貰っている人間の数がものすごく少なくなっています」

院「ベーシックインカムで生きていけることと、そもそも人間が入っていける職場が激減しているということだね」

A「そのとおり。お医者さんにしても、生活費はベーシックインカムで保障されているので、飲み会で暗闘してまで組織にしがみつくなんて人はいなくなります。でも、ただのお医者さんではだめで、「治療くん」すなわちAI機構をモニタリング、使いこなし、その不備を補い向上していく、そんなお医者さんでないと職にありつけないでしょう」

院「要は、人間が「考える葦」として「我あるために、思うことを忘れない」ことが大切だと言いたいんだね。さて3000字越えなので、今日はこの辺にしよう。AIくん、どうもありがとう」

A「こちらこそ、どうもありがとうございました」

AIくんの言うことが、どこまで実現するか?ではでは。。。

映画「本日休診」1952年松竹

 

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写実から抽象へ―純粋美術への道

今回は「超写実絵画に見る写実の本当の価値」の姉妹編で、両方の記事で補完するようになっているので、ぜひ読んで下さいね。。。。

さて。

これまで何度か美術関連の記事を書いてみて、絵画の発見とは人の思考・意識・感情そのものの発見だ!と驚いています。究極の自分さがしですねー

そして、人類史上における美術の進化にも目を見張るものあり。近代以前はキリストとかビーナスとか、ステキな画題を具象として表示するための「媒体」だったものが、その「媒体」つまり作品自身に価値が生じ始め。

例えば、フラ・アンジェリコの受胎告知ですが

当時西欧の上流階級の人にとって、神々しいキリスト教の挿話の「記録と普及」の媒体であり。跪きなから、涙して観賞した、ということだと思います。

一方で、いくら涙にむせんでも、絵そのものに涙しているというより、やっぱりキリストさまのエピソードに涙している、ということなのでした。ははは

しかし1500年以降世界は広がり。今日、ブラジルの土着民であるぼくから見れば、キリスト教なんてどうでもいいよーん。それより、絵にかいてあるお姉さんの困惑、喜び、恐れ、重圧、解放いりまじった不思議な表情にひきこまれてしまい。知り合いのお姉さんにそっくりだ、どうもほっておけない、と時間も忘れて見入ってしまう。これは、画題なんて関係ない作品そのものが生み出した価値と考えます。

実際は、この絵にしても、公的(宗教的)な存在価値と、美的に生み出された価値が共存しており、時代により絵によりどちらかが振り子のごとく前面にでたり隠れたりしながら、螺旋を描くように進化していった。

しかし、写真の実用化という大事件が起き。上で書いた「記録と普及」は一瞬で何万枚と印刷できる写真に奪われてしまいました。

では、絵画は消滅してしまったのか?

いえいえ「具象から解放された純粋美術へ進化した」のでした。

写実画は「具象と美術」がひとかたまりになっており。ここから具象を切り取って行って、純粋に美術にしたものが抽象画である。

ミケランジェロが「石柱を削って中から彫像を解放した」ように、抽象画家も「写実を削って美的映像のエッセンスを解放した」。ううむくどいかな

その方法は、光の解読(印象主義、ただしまだ写実絵画です)、視点の分解(キュビズム)などから始まり、時間(動き)の分解などを経由して、カンディンスキーの構成絵画で頂点に達したと理解しています。

その後の近代・現代絵画は?さて進化か退化か?実は退化しているような気がしてなりません。もちろん、新機軸の発見やインパクトの提示といった面では現在絵画はすごいけれど、それはホラー映画を見て絶叫している、というたぐいの「感動」ばっかりで、はっきり言って苦手です。写実絵画の「泉(アングル)」みたいに、見ていてあれれ、絵の中に迷い込んじゃった、みたいなそんな感覚にさせる方が本物と思っています。(一方、キリコやホッパー等の往年の巨匠から一層進化したような、Tristan Pigott、Jessica Brilli、Judit Kristensenや永井博などによる、すごい現代絵画もある(外部リンク)。(これらは、また別の機会に書かせていただきます。)

つまり、ちゃんと「写実の中から美という核を抽出した」絵じゃないと、ぱっと見だけは抽象画だけど、実は絵の具をてきとーにぶちまけただけで「核・中身」がない、せいぜい投機によるお金儲けの道具程度にとどまってしまうと理解しています。

では、どうやって核を抽出しているのか?

例としてカジミール・マレーヴィチの絵があります。

マレーヴィチさんは、ロシア革命のころに活躍した画家で、共産主義の恐ろしい暴風に翻弄され、投獄されたりしながらも「至高主義絵画」を確立した美術の革命家です。

最初のころは、帝政ロシアのブルジョア的?印象派ちっくな絵を描いており。

花売りの研究(1903年)

ううむこの次の年に日露戦争が始まり、203高地だの日本海海戦だの未曽有の殺し合いになってしまった。人間って恐ろしい生き物ですね。

自画像(1908年)

印象派ちっく、フォーブちっくに崩しているが、しっかりした写実技法の裏付けある絵画からスタート。

収穫(1910年)

このあたりから抽象がはじまり。

一方、ソ連の提唱する「社会主義リアリズム」とそりが合わず、1920年代から迫害が始り。ついには投獄され、その後釈放されたものの、当局と折り合うためには純粋な抽象を捨てざるを得ず。こんな絵を発表しました。

帽子の少女(1932)

しかし、マレーヴィチの最高の時期は、やっぱりのびのびと絵をかけた期間で、名前からして「至高主義」というのを発表しています。

至高主義構成(黒の台形と赤の広場・1915年)

フットボール選手の絵画的リアリズム– 4次元の色の塊(1915年)

建設中の家(1916年)

イエローとブラックのダイナミックコンポジション、1916

シュプレマティスト作曲No.56、1916

晩年に至っては、体制との葛藤が伺えます。アメリカとかに亡命しなかったのは、スターリンとは合わないけれど、社会主義を信じてはいた、ということらしいです。

熊手を持つ女、1932年

女性の肖像、1930年

これらの絵を並べると、具象から抽象への進化がわかります

左の絵は、お姉さんという画題・対象が存在していますが、右に行くにしたがって色や形態が独立して活躍?を始め。右になると、もはや色や構成それ自体が絵となった非対象絵画(無対象絵画)というそうです。へえええ。。。。

今回のお題に最も合致するものとして、共産主義当局の追及を、あたかも写実的な絵で逃れながら、その実、至高主義をちゃんと表現したすごい絵を掲載します。弾圧という運命のいたずらで生まれた絵ですが、写実→抽象の転換が見事にわかる好例と思います。

本物の識者は、弾圧の中でもうまく伝えるべきものを伝えてくれるということですね。

自画像(1933年)

この絵の署名欄であるところに「黒い四角」が入っています。

下右のかどっこに小さく、ほとんどみえないですが。。。。

このちっちゃな四角を拡大するとこうなります↓

黒い四角(1915年)

黒の正方形、とも呼ばれます。

1915年、ペトログラード、現在のサンクトペテルブルグで行われた「最後の未来派絵画展0.10」において、ロシア人から見て室内で一番神聖な場所である、壁の対角線の天井すぐ下に飾られたこの絵画は、「写実からすべてをそぎ落として純粋な核のみが残ったその結果だ」として、「新しい絵画の0地点」と呼ばれるようになりました。

一見なにげな肖像画(自画像)の署名がわりにこの絵を置いたこと。そしてさっきの「帽子の少女」をほうふつとさせる構成(色使い)。つまり、写実的な絵の中のどこに抽象の核が埋まっているかを見事に表した恐るべき絵だと思います。

-O-

ちなみに、ぼくは「抽象とは、具象から進化したものである」というスタンスを支持する一人です。「そもそも具象とは全く関係ない」というのとは違った見方です。また、抽象絵画を無対象美術のみとする、あるいは対象のあるものも含めるとするいずれの見かたにしても、「画家の魂からほとばしり出るものである」かつ「内的必然性」が関わってくるので、結局「一刀と二刀が同じ剣道(得牛)であるように、根源的には同じもの」と理解しています。

もっとも、内的必然性についても「絵画の特定の形式が観る者に与える感覚」「個性の要素、内的価値としての様式の要素、純粋にして永遠なる芸術性の要素によって構成される色彩の諧調(調合)の法則性」などいろいろな見方があり。日々修行、勉強です。ははは

ちょっと尻切れトンボかもしれません。また技法の面などから新たに書いてみたいと思います。

映画「日本海大海戦(1969)」より。203高地の戦闘

ではでは。。。

 

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オリンピック考

2月初め時点で東京都の1月の新型コロナの感染者について、Response.jpの報道によると3万9664人となり、月単位では昨年12月の2倍を超え。

日経新聞とテレビ東京が1月29~31日に実施した世論調査でも、非常事態宣言の延長を求める回答が「9割」に達したらしい。宣言発令の時期を巡っては「遅すぎた」が79%、「適切だ」は14%、「宣言を出すべきではなかった」はわずか5%だった。

今夏の東京オリンピック・パラリンピックの開催については、感染拡大が続くなら「中止もやむを得ない」が46%、「感染対策を徹底したうえで予定通り開催すべきだ」はわずか15%にとどまった。

との報道がありました。(全文はhttps://response.jp/article/2021/02/01/342698.htmlご参照)

アスリート側の見解としては、number.bunsyun,jpで2000年のシドニーオリンピックから3大会連続で出場した陸上選手の談話が載っていましたが、要約は

◎開会式や閉会式はなくてもOK。競技さえきちんと成立していれば、開会式や選手村は大きな問題ではない。

◎オリンピックというショーは”メダルを取れる可能性のある選手たち”が出れば成立する。

◎オリンピックに選手が求めるものは「名誉」。それは強敵に勝たないと得られない。つまり、強豪国、強豪選手の全員参加は必須。

◎もう一つ選手が求めるものは「観客」。選手は観客の存在に無意識下ですごく影響を受け、”奇跡の一瞬”みたいなものは、だいたいが観客と選手との不思議な関係の中で成り立っていたりする。

となっている。(全文はhttps://number.bunshun.jp/articles/-/846913ご参照)

もちろん、観客となる市民の意見も人それぞれ、選手の意見も人それぞれでしょうが、上記が大体の最大公約数かなと思います。

ぼく自身は、最近まで、「これはアマチュアスポーツをゆがんだ形で利用してきた権力への、神の罰だ。コロナ禍を機会に当面中止。営利そのもののショービジネスに転化してしまうくらいなら、廃止した方が良い」と考えていました。

でも最近は、オリンピックが選手同士で極限を「試し合う」場としてなら、開催するべきと考えるようになりました。コロナ鎮静化までは待つべきと考えていますが。

現在のオリンピックを象徴する写真があります。

出展 https://number.bunshun.jp/articles/photo/846913?pn=3 ©Getty Images

政治家がニコニコと笑って旗を振っています。

オリンピックは選挙運動だったのか?政治家は裏方に徹するべきであって、こうした場面で旗を持つとしたら、文化人や芸術家、往年の選手、そういった文化面での日本の代表者であるべきと思うのです(ぼくは「ふなっしー」を推薦します!旗持てないか?)。

日本が本当に貧しかった戦後は、オリンピックでメダリストが出るたびに、国民も「ぼくたちも勝利できるんだ!貧困、欠乏を回復できる力があるんだ!」という希望でいっぱいになり。

そういう希望をもたらすという意味では大切だった。

1964年東京オリンピック。TVは白黒でした

しかし、勝ちたいばかりに、恐ろしいゆがみも生んでしまい(人の命が軽すぎる)。

「東洋の魔女」の時代は、とにかくシバかれ、拷問を生きのびた選手のみが五輪に参加でき。負けて監督の平手打ちを食らうのがいやなばっかりに、五輪という修羅場で体力的に数段上の相手を圧倒した(勝てばビンタ程度ですんだ)。

ぼくが子供の頃、女子バレー日本代表チームがブラジルまで親善試合に来ましたが、女性選手を罵倒しぶん殴る日本の監督に、ブラジル人観衆は「虐待だ」と戦慄していました。一方、ブラジルチームの方は、みんな好き勝手にぺちゃくちゃ、監督の言うことなんてろくに聞いていない、就学旅行みたいな感じで、ストレート負けはしたが、どちらがスポーツかというと、ぼくはブラジルだと思います。

戦時中の悪夢のような軍事教練を持ち込んでいた、当時の日本チームのあり方に、ぼくは賛成することができません。

さいわい日本は裕福になり。女子バレーも「楽しさ」「人権」が優先されるようになったと理解します。それで負けたっていいじゃないですか。

人権無視の軍隊教育で勝つような国は、北朝鮮を最後に消え去ってほしいと思います。

なぜ北朝鮮や、かっての日本のようなチームが存在できるのでしょうか。それは、政治家から見れば、「オリンピックで勝つ強い国」とセットで「その国の優秀なリーダーである証明」がお手軽に得られるからです。

アスリートは極限まで使いつぶし、自分はぽてちでもつまみながら観戦して、金メダル獲得するごとに、自分の票固めができるぞ!こんなうれしいことはないですよね。

国民がオリンピックに熱狂することは、産業界にとってもお得であり。1億日本国民がオリンピックに殺到するわけですから、ビジネスとして利用しないわけにはいかないですよね。

こうして政経一体となったオリンピック騒ぎが生まれ。この悪だくみに踊らされて国民がますます搾取される図式が出来上がります。

でも、オリンピック景気で日本は発展しなかったっけ?発展しました。オリンピックのすべてが洗脳・搾取とは言いません。

でも、オリンピック以前に、国が人口ボーナスの発展期にあったからこそオリンピックが成功をもたらしたという事実があるのです。

オリンピックなんてあろうがなかろうが当時の日本は大発展を続けていた。そこに、オリンピックを契機とした大規模事業、交通網の整備、メディアの発展があり、成長の触媒にはなった。一方、経済が苦境にある国でオリンピックを開いても、その場限りの特需景気が起きるだけで、祭典が終われば無用の長物化した巨大スタジアムなどが残るだけです。

ブラジルのマナウススタジアムが好例で、オリンピック後は誰も使ってくれないので、「いっそ刑務所にすれば、ブラジル中の政治家を収容しても余るスペースがあるぞ」なんてジョークのネタになったりしています。

白い巨象。マナウススタジアム

https://besthqwallpapers.com/Uploads/18-1-2019/77775/thumb2-amazon-arena-aerial-view-football-stadium-hdr-soccer.jpg

ほんとうに裕福な国の人の意見では

「あれはミスユニバースと同じで、貧しい国に勝たせてあげて、希望を持たせるのが重要だね。先進国は 選手のおかれた環境がいいから勝って当然だけど、無理な勝ち方なんてしなくていいし、国民もそんなことは求めない。まあ四年に一度の風物詩みたいなもんだね」

だって、オリンピックで誰が勝とうが、コロナの特効薬ができるわけでなし。十分満足な生活ができている先進国の人にとって、オリンピックとは、せいぜいアーチェリーだのボブスレーだの普段接しない新たな文化を教えてくれる有益なテレビ番組、程度でしかないと理解しています。

さて選手側の見かたとして。

もちろんオリンピックに比べてはるか下のランクですが、僕もしがない「古流剣術選手」として、ブラジルでの全国大会に数度参加してメダル頂いた経験があり。全剣連剣道と違って観客があけっぴろげに熱狂できる環境だったので、面が決まった!瞬間、どどどどー!と床が振動しまくり、おおおおー!と観客が大騒ぎする。もちろん選手同士は互いに配慮してガッツポーズとかは無しですが、観客の熱狂は悪い気はしませんでした。

写真は全国大会ではなく、日本のとある大学との親善試合です。

背中を向けているのが僕です。かっこわるいな、ははは。。。。

でも、それが目的でもないし、別に観客なんてなくても、それよりブラジル中の二天一流剣士が集まり、面小手の竹刀勝負で研鑽度合いを文字通り「試し合う」得難い機会において、自分の納得する面が打てるかどうかが、なにより大切だった。

というわけで、無観客試合でも全く問題ないですけどねーでも冒頭のアスリートは「観客に元気頂いています!」だそうで、オリンピックはその点ちがうのかな?

3000字を超えたので無理やり結論付けしてしまいます。

オリンピックはいつから古代ローマの見世物になった?アスリートは闘技場でライオンに食われる剣闘士でもないし、観客だってライオンに食われる人を見て自分のみじめさを紛らわす愚民でもなく。要は「愚民政策のサーカス」ではなくて、アスリートが「スポンサーとかに気兼ねすることなく、試合に専念し、真の名誉(精神と知能)を勝ち取ることができる」そんなオリンピックなら、開催してほしいと願っています。

近代陸上草創期の世界大会で、とある選手が転倒し、靴ひもを結ばざるを得なくなったとき、他の選手はいっせいに立ち止まって結び終わるのを待ったという伝説あり。

そんなオリンピックになったらいいですね。

ではでは。

Posted by 猫機長
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フェルメール考:西洋美術の砂場とは

人生に必要な物はすべて幼稚園の砂場で学んだ、という言葉があります。

さて、フェルメールというお兄ちゃんがおり。オランダバロックの巨匠です。

オランダバロックというとレンブラントがおり、いずれも明暗、光線の画家ですが、レンブラントは聖書のお話や集団肖像画などスケールの大きいのが好きで、フェルメールは部屋の中でお姉さんが何かしている、みたいな無印良品で小さめサイズ(50X50cmくらい)のやつが得意だった。

以前、名画は構図がしっかりしている、ということを書きました。

モチーフをなにげに(自然に)描写できているか。これが基本であり、できていないとデッサンが崩れる、とかになり修正がきかなくなる。

というわけで、画家の人たちはいろいろ工夫しています。

例えば、とある風景を描こうとしたとします。

このとおりにすべてをいきなりキャンバスにかこうとしてもなかなか難しく。

で、フェルメールの場合は、キャンパスの、遠近法でいう消失点に当たる場所に針を刺して、絵の具の付いた糸を貼り、放射状に画面を分割したらしい。

こんな感じ

こうすれば、たとえば排水溝は素直に消失点へのびているぞ!と安全に正確な描写ができます。(もちろん上記はこの原稿のためにテキトーに引いただけです。あしからず)

さて、当時の絵「手紙を書く女(1655年頃)」いってみます

あれ、フェルメールじゃないじゃん

その通り。ヘラルト・テル・ボルフという、同時代のオランダの画家です。

「手紙を書く女」というのは複数の人が扱ったテーマらしい。

で、フェルメールの「手紙を書く女(1665頃)」です。

テル・ボルフのほうは「とにかく端正」。消失点からキャンバスを区切る技法を使ったか使わなかったかはわかりませんが、あるべきものがあるべき形で、正確な遠近法で描写されており。見ていて安心?な絵だと思います。

フェルメールも端正ではある(この絵に「針の穴が開いていた」かどうかは分かりません、ははは)。でも「なんかほっておけない」絵になっています。美しいね、安心だね、と通り過ぎることを許さず、あぶなっかしい何かに立ち止まらされ、取り込まれてしまうのです。

で、よくみると、フェルメールの方は「ゆらいで」おり。

◎椅子の角度とかが微妙に歪んでおり、お洋服で隠されているが、ちゃんと腰かけられているのか?そして遠近もちょっと「ゆらいでいる」?

◎真珠の首飾り?とか、宝石箱の鋲?とかの輝きが強調されていて、フェルメールならではの表現になっている。これをデフォルメ、オーバーな表現と言ったら怒られるだろうか?大げさと言えば、キラキラお目めはいうに及ばず。

この「ゆらぎ」がもっと典型的なのに、「牛乳を注ぐ女(1659年ころ)」があります。

まず、全体的なパース(遠近)から。微妙にずれているんですよね。。。右足元の箱(カイロらしい)とか、窓枠の一番下の枠と、枠に接する壁の木製?部分の線が平行すぎね?とか。(考えすぎかな?消失点を右手首上くらいとみています)

窓の奥、壁にひっかけてある金属の箱?も、光線の方向とかげんからして、こんなに輝かないよ?とか。

きわめつけが机で、壁にぴったりだったら、めちゃくちゃ台形の机だし、ピッタリつけてなくて、斜めに置いてあるんだったら、青い水差し?を置ける広さがなく、落っこっちゃうぞ?だし。

でも、フェルメールの場合、不手際でこういう「ゆがみ」が出ちゃったのではなくて、あえて「ゆらぎ」のある絵にした のだと思います。

あと、やっぱりポワンティエがあり。つまり「熟れたトマトは赤、熟れてないのは緑」的な既成概念ではなくて、「トマトがどんな光を反射しているか」というのを追求したら、ポワンティエになった、みたいな。

篭やパンにおけるポワンティエ(白い光の粒子)

写真じゃなくて本物を見てみたいな。。。

ううむ、遠近をあえてずらすと?こういう絵があり

ジョルジョ・デ・キリコ「街の神秘と憂愁」1914年

机のゆがみと言えば。。。

セザンヌ「台所のテーブル(籠のある静物)(1890年)」

セザンヌのは、机だけじゃなくて、置物も歪んでいるけど。

この絵自体にはないけれど、きらきらお目めのマンガチックな強調は

リキテンシュタイン「夢想」(1965年)

そもそもポワンティエとか、対象の色彩を「常識として決められている色」から「光として見える色」「光の効果」の描写に進化させた点では、印象派のさきがけだったかもしれん。

ルノアール「ピアノに向かう娘たち(1892年頃)」

ということは。。。。

「近代以降から現代アートまでに、いろいろな画家たちが編み出した表現は、実はすべてフェルメールの絵の中に存在していた」

つまりは

「絵画に必要なことは、すべてフェルメールの絵で学べる」なんちって

すみませんウケ狙いでテキトーなことを書いているかもしれません。でも、フェルメールさんの絵を勉強すると、絵画のエッセンスがかなりのところまでわかるようになるのかな?と思うようになりました。

フェルメールのすごい所は

◎上記のとおり、形而上絵画だろうがキュビズムだろうが印象派だろうがポップアートだろうがなんでもありの「技のデパート」になっている。

◎そして、なによりこの多様性が見事に調和している。ぱっと見はとても穏やか、静謐なのに、やっぱりほっておけない情熱的な何かに、見事にまとまっている。

いわゆる一つの対極が「非対象絵画」で、モンドリアンの場合「絵画は直線の交差と赤、青、黄の3色のみに単純化される」みたいな極限へ到達したのはいいが、そこでタネ切れになっちゃった。

ピエト・モンドリアン「黄・赤・青と黒のコンポジション」(1921年)

フェルメールは、なにげな風俗画(対象のある絵)なのに、単なる対象の表現を超えた、絵の中から輝くような光が、見る人を「静謐、穏やかに」圧倒する。

なぜフェルメールはこの調和を達成できたのか?

フェルメールの絵をみると、上記の「ゆらぎ」つまり写実から見た「ゆがみ」は、だいたい一つの法則に従って発生しており、これが見る人に調和を感じさせているようです。

その特色は

◎一つの焦点(消失点)から、絵の外側に向かうに従い、円形にゆがみが生じ

◎輪郭も、いわゆるソフトフォーカスという形でやわらかく収まっている

あれ?それって昔の単眼カメラの映像じゃね?

というより、もっと昔々の「カマラオブスクーラ」による映像がそうなるらしい。

カマラ・オブスクーラ。レンズ(ないしはピンホール)でとらえた画像が、

スクリーン(キャンバスなど)に映写される。

当時の画家は、のきなみカマラ・オブスクーラを使っていたらしいが、フェルメールが一歩先んじたのは

1)さっきも書いた通り、トマトは赤じゃなきゃ、みたいな固定概念にとらわれず、ソフトフォーカス含め、カマラ・オブスクーラに映写された光を忠実に表現することを基本にした。

2)一方、カマラ・オブスクーラとはいえ、所詮はレンズの映写画像であり、人間のナマの両目で見た画像とは違うものであることを知り尽くして、人間の目で見た時にどう映るかを意識して描いた

このうち2)ですが、カマラオブスクーラ以前に、現代写真で、例えば

無料画像サイトから引っ張ってきたスイスの風景ですが、人間の視覚能力では、手前の倉庫、小道や教会、その後ろの街並み、緑の山、岩肌の見える頂上、後ろの青い山、雪をかぶった山脈、そして青空をすべて一時にここまで鮮明には認識できず。ために、この画像はきれいな写真にはなっても、現場で人の目に映る風景とは違ったものになってしまっているそうです。

フェルメールは、人間の2つの目と脳みそ(そしてハートも)ではカマラオブスクーラの映像がどう見えるのか、ということがわかっており。それこそヒッピーだろうが共産主義者だろうがそれぞれの人なりに「写真ではなく自分の目に映る風景」として見ることのできる絵を描き上げた、ということなのですね。すごいな。。。。

また3000字越え。いちおうオチがついたので、今回はこのくらいにしますが、まだまだ未消化ですね、修行が進むに従いまた書かせていただきます。

ではでは。。。

Posted by 猫機長
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緊急事態宣言再び:「誤った戦時医療」からの脱出

2021年に至り、コロナ禍はますます猛威を振るっています。

GOTO政策とか、経済政策優先をしたために、かえって医療崩壊に近づいてしまい。看護師さんの大量離職など、これまで最前線に立っていた医療部門の人々でさえも耐えきれ無い状況になっています。

ドクターハッシー:https://www.youtube.com/watch?v=b4DHp3DjaO4

そして夜の街のいろいろなお店のみならず、普通の飲食店や自営業の人々たちも営業ができなくなってしまい、ますます困窮してしまっています。

コロナ禍以前から、ネットカフェ難民になっていた日雇い労働の人たちに至っては、文字通り路上での物乞い生活になってしまった人も多数。

これら大量の困窮者や、お客さんがいなくなり営業できなくなった多数の自営業の人たちは、どうやって生活していったらいいのでしょうか。

結論から言えば、技術的にはこうした人々を、コロナ禍の収束(つまり、コロナが弱毒化して「風邪程度に弱くなる」日が来る)まで持続的に救済することは可能です。

救済策のキーワードとして「戦時医療(命が安すぎる)」という言葉があります。

そして、日本政府が取るべき方策は「誤った戦時医療の方針を軌道修正する」ことです。

そもそも「戦時医療」ってなに?

航空母艦の例で説明します。

とある空母が、爆撃を受けてしまったとします。

幸い甲板はダメージを受けませんでしたが、甲板に多数いた整備員が重傷を負い、飛行士数名が軽症を負いました。

平時であれば

①重症者の手当をまず優先し、

②その後、軽症者の手当

となりますが、戦時医療では

①まず飛行士を手当てし、艦載機を一刻も早く発艦できるようにする

②重症となり甲板に転がってうめいている整備員は、元気な者がモップなどで海に掃き落とし、ともかく甲板に艦載機が発艦可能なスペースを作る

となってしまうのです。

ここまで読めばお分かりと思いますが、コロナ禍で日本政府がやってきたのが

①GOTOなどで経済を一刻も早く回したい

②医療従事者は、経済優先で爆発した感染者のうごめく医療崩壊の海に掃き落とす

だったのです。

発艦が遅れた「魔の5分間」で空母三隻喪失の実例もあり、

戦時の空母では、離着艦がなにより優先となる

さらに言えば、コロナ禍以前でも、ネットカフェ難民やニートなど救済措置を取らなかったこと自体が「誤った戦時医療」をやっていたということで、今回のコロナ禍は、もしかしたら、神様が「日本という国はとても豊かなのに、戦争中の国のような戦時医療(弱者切り捨て)をいつまでもやめない。こんなでは国そのものを滅ぼしてしまえ」という「神の罰」を発動させたのかもしれません。

いまや日本は医療崩壊、経済崩壊の緊急事態に入っています。

従って「戦時医療」は有無を言わせない現実としてのしかかっています。

では、貧困女性、路上生活者、立ちいかなくなった自営業の人たちを「絶望の海に掃き落とす」ことで解決できるのでしょうか。いえいえこれこそ「コロナ禍以前から神様を怒らせるくらい政府がやってきた過ち」であり、この期におよんで政府が態度を変えないならば、本当に神罰が下ることになるでしょう。

では、何を「掃き落とせば」いいのでしょうか。

技術的には簡単です。

「政治家の給料を議員等のふところから掃きおとし、弱者救済に回せばいいのです」。

数字で説明します。

国会議員は、2020年に710名となっています。

国会議員の給料、そして主要な手当は、次の通りとなっています。詳しくはhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/44609?imp=0

をご覧ください。(ざっくりした年間所得です)

①基本給与として2100万円を受け取っている。

②「文書通信交通滞在費」1200万円が支給される。

③「公設秘書3人分の給与」として、2500万円。

④「立法事務費」780万円

⑤その他700万~1000万円が議員個人に渡る

総額は7280万円。すごいな

ここで、⑤についてはなんのことかあまりわからないし、③④も雇用等に関わるということで差し引いた①+②=3300万円を救済金としてあてることとします(それでも政治家のふところには3980万円残る)

①+②=3,300万円X710人=2,343,000万円÷12か月=195,250万円=19.5億円

つまり、1か月あたり19.5億円が救済資金として計上できます。

上記は国会議員のみ。地方議員の場合、都道府県で格差があるが、平均は1000万円+アルファとのこと(出展はこちら:https://financial-field.com/income/entry-128334)

そして人数は、都道府県議会議員2,668人+市区町村議会議員29,762人、計34,230人として算定すると、

1000万X34,230=34,230,000万円÷12か月=2,852,500万円=285億円となります。でも、村会議員なんてそもそもの給料も少ないし、議員さんたちの生活もあるので、実際配れるのはこの半分くらいか?つまりは142.5億円

ちょっとどんぶりだけれど、上の19.5億円と足せば162億円になります。日本の人口を1.3億とすると、1人当たり124円が配布可能となります。

ここまで読んだ皆さんで、これってベーシックインカムのことでは?と気が付いた人がいると思います。

はいその通りです。税金として徴収された金額のうち、政治家への給与となる部分の一部を、ベーシックインカムとして国民全員(政治家も含んでいますよ)へ再分配するということです。

124円じゃどうしようもないですねえ、と切って捨ててしまうか、あるいは、124円だけでも国民全員に配れるぞ!と考えるか。ぼくとしては、こうした選択肢がありうるという一つの希望として、前向きに考えたいと思っています。

もちろん、この計算はものすごくどんぶり勘定です。そして、単にベーシックインカムによる再分配を提示しただけなので、看護師さんはじめとする医療部門の人たちへの技術面・物資面・資金面・体制面での支援や、また、ロックダウンが2年3年と続いた場合の経済力維持など多数の課題が残っています。

でも、これまでのように「アクセルとブレーキを同時に踏む」ようなことをやっていたら日本は本当にほろびてしまうぞ!という危機感から、書かせていただきました。

出展:https://note.com/hyamaguchi/n/n0c60c7292ec3

ちなみに、経済減速を恐れて戒厳策を取らなった国の代表にスウェーデンがありますが、遂に180度方針転換しました。ようつべなど見ていると「やーいやっぱりだめだった」みたいな意見があったりしますが、けなすのではなく、北欧の先進国がどのように戒厳下で、国民の健康を犠牲にしないで経済を守るのかという世界へのお手本をこれから見せてくれることを期待します。

ベーシックインカムは、ほんらい支出に見合った国家経済力がないとうまくいかないとは思いますが、まさに「戦時医療」で上記の対処を考えました。一方で、コロナ蔓延のロックダウンでも、テレワーク等でオフィスワーク・都市機能は十分維持可能だし、農業においては大規模農業はもともと3密はなし、小規模農家や、飲食業が機械化やデリバリー強化などで復活してくれば、その時はAIによって強化された生産性による利益が政治家の給料を代替し、意外に早く恒常的なベーシックインカムが来るかも?とくに、日本のようなネットカフェ難民・貧困女子など要するに先進国なのに社会的弱者が多数の国には、なるべく早く来てほしいと願っています。

空調完備の巨大トラクターではるかな地平線を見ながら

作業する人。3密とは無縁の世界もあるのです

ではでは。。。

Posted by 猫機長
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命の値段が安すぎる日本。生きる権利を大切にしよう

以前、コロナワクチンの導入というお題で、ブラジルのほにゃららで支離滅裂な対応について投稿しましたが、実は日本も。。。。と思い当ってしまったので、記事にします。

江戸時代、「現状維持の伝統墨守政策」により天下泰平を得ていた日本ですが、その間、下剋上の戦国状態だったヨーロッパでポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、オーストリアそしてイギリスが「仁義なき覇権争い」でボコりあい。その過程で科学、工業を大発展させたため、動脈硬化した日本は取り残されてしまい。黒船来航で植民地化つまり「下級国民として使い捨ての奴隷労働になってしまうぞ!」という危機にさらされ。必死に文明開花し、日清、日露と恐ろしい戦争に無理矢理勝ちぬいて生存権を獲得しました。

しかし、ここで恐ろしい不条理が正当化されてしまいます。

それは「科学の遅れを人命で取り返せ」。

日露戦争で旅順要塞の戦い、というのがあり。「203高地」という映画で見事に描写されていますが、べトンで固めたロシアの要塞に、日本は小銃に着剣して「とつげきー」と繰り返し、機関銃の餌食になって死体の山を築いてしまいました。結局坑道といって敵の射界に入らないように塹壕を掘り進めるとか、強力な大砲を持ち出して援護射撃するとかで要塞陥落に至るのですが、彼我入り乱れる状況で砲兵は敵味方見境なく砲弾を撃ち込み(味方を避けようとはしただろう)やっとロシアの機関銃を制圧することができたらしい。日本側は兵器が足らず(機関銃に至っては持っていなかった)、かわって多数用意できた人間つまり兵隊に敵弾を吸収させるという人海戦術で補った、というのが真相らしい。

203高地の惨劇。https://www.youtube.com/watch?v=-fi0ywmmGZY

ただ、これは日本の専売特許ではなく、独ソ戦のソ連がそうだったらしい。「突撃か、強制収容所か」と強要されたソ連兵は、我先にと突撃していったそうです。

要するにひっ迫するとどんな非道な手段も正当化されてしまうということですね。。。

以前書いた繰り返しになりますので要約しますが、日本軍は「お前らの代わりはいくらでもいるが、馬の代わりはいねえんだ!世話をやかせるんじゃねえ!」と、古年兵が馬用の鞭で初年兵をぶったたたく、そういう世界でした。

食うや食わずで戦地に放り出された日本兵たちはコレラなどに罹患してしまい。で軍の幹部がどういう命令を出したかというと、重病の兵を民家のなかに詰め込んで、逃げられないように戸や窓を封鎖したうえで、民家に火をかけさせて文字通り「焼却による滅菌」をしたのでした。屋根のすきまから、元気な兵がせめてもの。。。と水筒を小屋の中に投げ入れた、などの記載があったと記憶しています。すみませんこれらの記事はまだ子供のころに読んだものが多く、出展を示せないのですが、一字一句同じでなくても中国戦線などで事実起きていたことと理解しています。

さて、戦記で必ず出てくる日本軍の蛮行ですが、民家に押し入り食物等を奪う、というのは日常としてあったらしい。ただ、日本軍だけではなく中国軍もあまりかわらず、そもそも中国3千年の歴史で、戦乱時はどの時代の軍隊も行ってきたらしく、中国ではそれが普通となってしまっていたようです。それに日本軍も便乗してしまった(生きるために便乗するしかなかった)。

この状況を、「中国では300名くらいの人の命なんてふっと消えて草もなびかない」といった人もいたようです。

この時点で、「個人の命なんて何の価値もない」と身をもって思い知らされてしまった日本人が大量に生産されてしまいました。

戦争が終わると、こんどは廃墟から復興しなければ生きていけない、となり。ないない尽くしの日本がつぎ込めるものといえば、やはり「人の命」でした。

「うまくいった社会主義」「ジャパンアズナンバーワン」とおだてられながら、「奇跡の戦後復興」を成し遂げた日本。しかし、それは「滅私奉公」「終身雇用」つまり、実は共産諸国の強制収容所における無期懲役と変わらない「24時間戦えますか」の世界に否応なくけりこまれてしまっていたことに他ならず。

日本人の家を訪問した外人さんは「ウサギ小屋に家電やDAISOグッズがあふれかえっている」と驚くそうです。しかし、真夜中だろうが休日だろうが「企業戦士」はあまり家にはおらず、社員旅行だのカラオケだのと政治家が喜ぶ消費活動に給料をつぎ込み、半死半生で家に帰るわずかな時間も「みんな残業しているのに申し訳ない」と、うろたえたように過ごすので、あふれかえる世界最先端の家電もろくろく使う暇も気力もない、という状況になってしまい。

パブなどで、夜の女性の心にもないお世辞を喜んでしまっていませんか?

上司やお客さんに、心にもないお世辞がすらすら出てしまっていませんか?

その時、あなたは心を持たない虫になってしまっているのかもしれません。

 

明治維新このかた、日本は「軍隊アリの群」になっていたと理解します。

軍隊アリは「イナゴの地上版」とでもいうのでしょうか、20メートルにもわたった密集したアリたちの集団が絨毯のように地上を移動してゆき、前途に見つけたものは人であろうが猛獣であろうが寄ってたかって殺してしまう。

軍隊アリ。出展:https://ikimono-matome.com/dorylus-army-ant/

 

その軍隊アリが川に行く手をはばまれたときどうするか。

アリたちは、アゴでくわえあって巨大な「いかだ」状態になり、川に乗り出す。そして、ぷかぷか浮かびながら向う岸まで流れ着くそうです。

しかし、その過程で一定数のアリが、仲間の踏み台になったりしておぼれちゃうらしい。

仲間の犠牲になって溺死するアリたちは、特攻兵のように「家族のため、恋人のため」と悩みながら死んでいったのでしょうか。

永遠の0 https://www.youtube.com/watch?v=_SD62kSz7ws

 

はっきり言って、アリの神経組織や脳(に該当する器官があることはあるらしい)の作りでは、そこまで思考する意識活動はできず。要すれば本能に従って川に飛び込み、そのまま死んじゃうらしい。

つまり、勇敢に見える軍隊アリですが、人間と違い意識がないのです。

そして、人間から意識を消し去って、単なる昆虫にさせたのが戦争中の日本政府だった。

コロナ禍の今、日本の政府はどんなでしょうか

出展:https://note.com/hyamaguchi/n/n0c60c7292ec3

日本という絨毯を構成するいろいろなセクターについては細かく配慮していますが、それらセクターを構成する個人個人の命については、どうでもいいやあ!いくらでもかわりはいるもん!ということなのだと思います。

戦慄したのが、とある企業の「なんとか島移転」で、テレワーク、在宅勤務による対応が叫ばれるいま、在宅勤務ではなく、会社全体を「なんとか島」に移転し、だからみんな一緒に行きましょうね。となっています。厚生施設も完備してますよ、だから24時間会社人間でいましょう、という念の入れようです。

東京にマイホームを建てた社員とか、子供の学校とかおかまいなしです。一説では東京を出られない社員をリストラする手段でもあるとのことです。

つまり、軍隊アリの絨毯を、絨毯ごと集団疎開させて3密を死守したいらしい。なんとか島が大感染源のクラスターにならなければよいですけど。

東京に大地震が起こることを予見して、あらかじめ避難しようとしているのか?

また3000字を超えました。コロナ禍を真正面からとらえ、がっぷり四つの在宅勤務恒常化に進んでいる企業も存在します。欧米の第2波を迎え、巣ごもりの必要性はさらに強まっているのではないでしょうか。コロナ禍は、日本人が軍隊アリから個人の人間に戻る得難い機会かもしれませんね。

ではでは。。。

Posted by 猫機長
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美術ってなんだ?西洋美術と日本美術の差③

美術ってなんだ?西洋美術と日本美術の差③

これまで2回にわたり、西洋美術と日本美術をそれぞれダイジェストしました。今回、このシリーズのお題である「頭でっかちな西洋美術と、ほにゃららな日本美術の接点を探り、美術に現れる日本のお国柄を理解し、日本の不可思議な新型コロナ対策の解明を試みようと思います」についに到達。

さっそく「接点」というか、まずは「どう違うか」です。

これがなかなか奥が深く。表面上の差と、「奥義」に分かれます。

表面上は技法の面で明確な差があり。

すなわち

◎日本絵画は写実にこだわっていない

◎陰影によって成り立っているのが西洋絵画。

◎日本絵画は、陰影(グラデーション)のかわりに、輪郭線で成り立っている。

◎日本絵画は、色調があっさりしている(水墨画のように、モノクロの絵さえある)

◎日本絵画は、表現が簡潔である

というのが共通認識で、明治時代にフェノロサという人が指摘しました(ぼく個人の「感性」で脚色しました。ははは)。

これらの差が、西洋人と日本人の精神や文化の差を雄弁に物語っています。

西洋人が写実から出発したのはなぜか。「抽象的な想像に左右される主観ではなく、具体的な現実から導き出される客観」が西洋人のメンタリティの基礎だからです。

絵画は視覚芸術であり。だれの目にもこう写っているぞ、本物に似てるね!そっくりだね!というのが基本中の基本である。

できうる限りの写実があって、さらに写実を超えた「輝き」を目指すのが西洋美術であった。例えばみんな大好きフェルメールの「真珠の耳飾の少女(青いターバンの少女)」ですが、「カメラ・オブスクーラ」という装置でとらえたモデルさんの姿を平面(キャンバス等)に転写して描き出しています。当時の画家が共通して使用していた装置らしい。

カマラ・オブスクーラ。
ただしフェルメールは使っていないぞ!と主張する人もいます。

こうして描き出した、写真とまがう肖像がまずはベースになり。
しかし、単なるイラストではない「内部から輝くような芸術に」するため、それぞれの芸術家がいろいろな秘法を駆使していますが、フェルメールの場合は「ポワンティエ(点綴法)」で「写実を超えた一歩先」を実現しています。ポワンティエなんて、いかにも芸術的なお名前ですが、実はシンプル(容易とは言いません)で、「光の粒で明暗、特に輝きを表現した」。

例えば目。

白い点(星)が入っています。

えええー!じゃあ「ベルばら」のキラキラおめめのキャラクターたちと同じなんですか?その通り。「アルフレッド―!」の藤原栄子の原点はフェルメールだったのだった。へえええ。。。。

ちなみに、日本絵画に写実がないわけではなく、陰影による表現がないわけではない。例えば、ドミニク・アングルの(泉)部分と、渡辺崋山の絵を比べてみると

アングルのお姉さんは「泉」の擬人化。艦これの先祖ですが、実在の人間とまがうばかりの写実的表現です。渡辺崋山の方は鷹見泉石という実在の蘭学者で、当時日本では、実はここまで写実的な絵は「魂を取られる」などと言われ、嫌がられたらしい。

艦これ「空母赤城の擬人化」。実在の空母は、艦尾の
安定がわるく、なかなか着艦しにくかったらしい。
出展:https://wikiwiki.jp/kancolle/%E8%B5%A4%E5%9F%8E

日本画らしい、明るくあっぱらぱな陰影。富士山は輪郭線くっきりです。
葛飾北斎「凱風快晴」
でも線画、あっさり、あえて余白を作る一方、表面的で奥行(パース、遠近)を「気にしない、あるいは独特の表現をする」日本絵画の特徴がわかると思います。

さて、技法による差が見えれば、その奥にある根源(民族的素養)も明確になります。

西洋美術とは、論理を視覚化したものであった。

一方、日本美術は、情緒を絵の形でぶちまけたものだった。

従って、西洋世界の思考論理や思考の裏付けとなる教養についての知識がないと、西洋絵画はそもそも理解ができないのです。この「知識」にはいろいろありますが、わかりやすいのに「アトリビュート」があります。

簡単に言えば「持ち物」のことで、例えば下のダビンチさんの絵ですが、アトリビュートがわかれば、誰がみても「受胎告知」という聖書の物語だと論理的にわかるようになっています。

あれれ、この絵って、工務店のおかみさんが「どすこい!」と税金取り立てのお兄ちゃんを後ずさりさせてる所じゃないの?いやいや。

まず、お兄ちゃんは、白い百合の花を持っています。この「持ち物」で描かれる天使は「ガブリエル」といって神様のお言葉をつたえるメッセンジャーということがわかります。(ちょっと見えにくいけれど、左手から顔の前に伸びています)

お姉さんの方は、青と赤のお洋服(アトリビュート)で、聖母マリアであるということがわかります。

そして、背後に立っている細長い木は「糸杉」で、西洋では生と死のシンボルです。つまり、キリストが生まれ、殉教することを示しています。

これらの情報から、西洋人ならみんな知っている「天使ガブリエルが聖母マリアにイエスキリストの妊娠を伝える」という聖書の物語にたどり着き。「おおお、なんと美しい救世主の誕生の秘話なのだ!」という結論に達するのです。

聖書の「ルカによる福音書1章26~38節」に、こう書かれています(以下ちょっと省略しました)。

『28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。

31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」

34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。』

ふむふむ。。。。

一方で、日本絵画。仙厓和尚です

絵の名は「犬図」。きゃふんきゃふん。

かわいいね!終わり。

わくわく。。。。。

ここでついに奥義です。それは

『西洋絵画は「ふむふむ」であり、日本絵画は「わくわく」である』

です。

つまり、くどいけれど、西洋絵画は「情報・知識にもとづいて解明する」ものであり、日本絵画は「印象、心象、情緒を楽しむ」ものだったということである。

ううむ西洋と日本の違いは分かった。では、ジャポニズムなど、どうして西洋の最高の画家たちが日本の絵画に熱狂し、その影響を受けることになったのか?そして、このシリーズのお題である、日本のコロナ対策(はじめとする政策等)がなぜ不可思議なものとなるのか?の解明については、次の記事にさせていただきます。

なお、日本と西洋の違いというと、紙や布が豊富な日本と、毛皮を着る西洋。水が豊富な日本と、料理や絵の具まで油の西洋、といった自然条件や気候風土による違いも美術に如実に反映されるのですが、これもまた別の記事とさせていただきます。

今回はかなり繊細・コアな内容で、書いていて力尽きました。いつまでも終わらずすみませんが、見捨てずにごひいきください。

「ラーメン才遊記」から抜粋。
ラーメンは「ふむふむ」と気難しく考えながら食べるものではなく
「わくわく」でなければ。。。。そして絵画は?
ではでは。。。

*「犬図」について、あの犬は、実は禅の「〇」のことであり、「エデンの園を脱出せよ!」というメッセージなんだ!という人もいますが、こまかいこといわんと、わくわく!かわいいね!でいいじゃないですか。ははは追記でした。

Posted by 猫機長