十牛図
十二世紀ごろ、北宋の禅師郭庵(かくあん)によって人が仏性(自己知、神、など呼び方は多々ある)を「獲得する、取り戻す、目覚める」ステップを10枚の絵(と詩・散文)によってあらわしたもの。(分別智の強い人のために追記:散文つまり序は慈遠禅師の著作です。分別智ってなんだ?という人はこの括弧内のコメントなんて気にせずどんどん読み進めましょう。)
1.尋牛 / 2.見跡 / 3.見牛 / 4.得牛 / 5.牧牛 / 6.騎牛帰家 / 7.忘牛忘人 / 8.人牛供忘 / 9.返本還源 / 10.入鄽垂手
それぞれの図の説明は別記事で追って行きますが、まずは十牛図が悟りへの探索についていかにすごい資料・教典であるかについて、全般的に説明します。
十牛図は、散文での説明がなされています。たとえば。。。
1尋牛
(散文:序)自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。
これは、大人の世界のコミュニケーションツールです。ドイツ人(精神年齢45歳)的な論理思考の世界です。しかし、探すとか、迷うとか、本来の自己から遠ざかるとかが何を意味するのかと理屈で解釈(定義づけ)しようとするため読解のためのディベート(議論)になってしまい、三段論法とか論争に強い人が勝ってその人のいうことが真実になっちゃいます。そして、それは郭庵さんのつたえたかったメッセージとは、実はほど遠かったりします。
でもそうするとそこで悟りの探求は擱座してしまいます。そこで、詩の出番となります。
1.尋牛
(散文:序)自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく
(詩:頌)水濶山遥路更深(湖は広く、山は遠くに見え、道はますます果てしない)
これは、日本人(精神年齢12歳・第二次大戦時の米軍の分析による)つまり少年の言語です。
湖は広い。おぼれちゃうぞ!山は遠く見えて、果たして登ることができるのだろうか?道はますます果てしない。。。。と、尋牛の人の境遇をダイレクトに、理屈を超えた情緒に響かせることで説明しています。
しかし、詩のメッセージは、やはり言葉という記号のもつ表現力の限界から、受け手の主観によって影響をうけてしまい。もっとありのままに魂に届くものはないのか?ということで、もともとの絵に戻ります。
1.尋牛
(散文:序)自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく
(詩:頌)水濶山遥路更深(湖は広く、山は遠くに見え、道はますます果てしない)
(図)
絵は、言葉をもたない人、あるいは言葉を超越した人の言語です。
児童画というのがあり。「信号」をテーマにすると、こどもたちは青、赤、黄のまるい綺麗な光が人々のうえで浮かんでいる、みたいな幻想的な絵をかきます。おとなにかかせると、まず交差点があり、横断歩道があって、支柱が伸び、さいごに信号機の本体にたどり着きますが、それは「主に人口、車両などが多い大都市での交差点において、交通整理を行うため自治体が設置し税金で維持運営され、この違反は罰金のみならず刑法により懲役等の懲罰を招く可能性を持つ恐ろしい装置」という言葉を図解にしたものにすぎなかったりします。つまり、信号機とは何のためにあるのかなんて知らない子供たちのほうが、信号機のエッセンス(青、赤、黄の光を発するきれいな何か)に迫っていたりします。
郭庵さんは、まずは絵で論理思考に邪魔されない真実を伝えたかったのだと思います。でも論理思考を身に着けてしまった大人たちには、大人たちのツールも加えざるを得なくなったのだと思います。
いずれにせよ人間は原則5感しかなく、5感で解読できる方法で何とか第6感以上の世界を伝えようという壮大な試みであり、絵、詩、散文で要点をついた?重要な遺産と思っています。
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