尋牛 (じんぎゅう)
牛を訪ねて三千里。。。。
何事も基本が大切といいますが、初心者すなわち達人だったりします。それはへたな熟練者のように「試合テクに走って目先の勝ち負けにおぼれ、本質から遠ざかってしまう(S9)」ということがないからです。
このステップは、いわゆる分別を知る。パスカル的に言えば「ただの葦から考える葦になった」という段階です。その日その日の感情、欲望のまにまに生きてきた動物としてのヒトが、「ここはどこ?、私はだれ?、そしてどこに行けばいいの?」という自分自身の認知を獲得し、意識、意思、智慧をもって未来を創造する人になったというじつはものすごい進化を達成しているステップだったりします。
しかし、牛の世界は「五感しかない人間には想像もつかない」世界であり。では、人間は牛をつかまえることはできないのかというとそうではなく。そもそも人間も牛の一部(あるいは牛そのもの)だったりします。
旧約聖書の創世記で、アダムとイブは楽園エデンにいましたが、「食べてはいけない木の実(リンゴとかザクロとか具体的には不明)」を食べてしまったため、「善悪の知識」がついてしまいました。
でどうなったかというと、ふり〇んじゃはずかしい!とイチジクの葉っぱで隠した。ふむふむ、ここでアダムとイブは自分でない存在が自分に対して想像していることを自分が想像し、自ら意識して自分ではない存在が想像していることへの対応を行ったのですね(三項関係の理解(S3))。(こんがらかったら読み飛ばしていいです。でも理解できればさらによいです)。
この瞬間、人間は神の家畜から自由意思を持った人間になったのである。
で十牛図にもどりますが、ここでも居ごごちのいい家畜生活からけりだされてしまい、すべて自分の責任で牛にたどり着かなければならなくなっちゃった。
といってアダムだろうが十牛図のにいちゃんだろうが、神・牛と切りはなすことはできないわけで。せいぜい「意識を獲得したら神の一部であることを忘れちゃった」という状態です。知ってはいるが思い出せないのです。動物の場合「自分に仏性があることを知らない(S4)」そして神の中に無意識で埋没している状況ですが、そこからぬけだし、自分という個性をもって神に中に帰ってゆく壮大な旅がここでスタートしたのです。神に帰るってなんだ?それは次の図から探求してゆきましょう。。。
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