得牛(とくぎゅう)

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得牛(とくぎゅう)

前回ではついに牛との遭遇が起こりました。しかし、ほっておけばまたどこかへ消えてしまう牛。捕まえて手なずけようとするのですが、そうすればするほど牛はすさまじい勢いで飛び跳ね、限界に挑む努力を人に要求します。

例によって剣道でのたとえ話で説明します。

さて剣道は身体運動であり。いつか体力の限界に挑む練習も必要となります。たちまち体力は消耗し、手足は痛み、目はかすみ、息も絶え絶えとなり。しかし「ほんとうの一本」を打つにはそうなる必要があるのです。体が軽快に動くうちは周囲がよく見え、格好よくしたい、という雑念のとりことなり、体が動くだけに自分も周囲もうまくごまかした打ちをしてしまいます。これが疲れてくれば見栄や外聞などに気を配る余裕はなくなり。「ただ打つのみ」の心境であり、動作となります。すなわち「無心の打ち」である。ふらふらになって打った最後の一撃にわれながらおどろく、ということがありますが、通常の生活を支配していた顕在意識が気力・体力の昇華によりゆらぎ、純粋な潜在意識の「気づき」が起きる。そのとき、それまで理性や本能に抑圧されていた本来の自己が解放され、自分自身が本来無限の可能性をもつ存在であることを「思い出す」のです。ぼくも試合で、絶対絶命に追い込まれたせつな、一瞬目の前が真っ暗になり、あっ雷が落ちた!と気づいたら自分でも驚く面を打っていた、という経験があり。このとき剣道の神様がおりてきて「面はこうやるんだよ」と体にやどって教えてくれた、と思っています。

ちなみに原典では「純和を得んと欲せば必ず鞭撻を加えよ」つまり鞭をもって牛を手なずけなさい、としていますが、実は鞭うつのは自分自身だったりします。つまり、このステップでついに人と牛の同化がはじまる、ということなのでしょうか。

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