剣道、居合道、弓道:日本武士道から見た成功とは

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剣道、居合道、弓道:日本武士道から見た成功とは

成功法則関連記事。調子に乗ってもう一本投稿します。

長い記事になってしまったので、一応ひとことダイジェスト:「成功達成の実践に向けどんなアプローチをしたらいいの?について書いています」。将棋の記事の姉妹編になりました。

日本武士の必須技能かつ教養だった剣術と弓術。江戸300年のうちに居合も発達してゆき、明治以降は「術」から「道」へ進化していきました。

「術」段階では、とにかく実用性が命。その実用性を決するものが「武器」です。中国的な言い方をすれば「器械」です。つまり、いかに製造目的に合った効果的なツールかということで、製造目的として「殺傷力」が重要視されました。

中国のいろいろな器械。出展は「中国武術・武器博物館(http://www.oriental-dragon.jp/)」

中国の場合はえげつなく無数の殺人器械が発明されましたが、日本の場合は武士のことを「弓取り」というように、弓、槍、刀。槍やなぎなたは今回取り上げませんが、弓、刀ともに戦国時代当時では世界最高の武器として発達していたと理解します。

素材の制約もあり、日本の弓はたぐいまれなる大弓となり。当時の命中率は世界最高だったらしい(現在は別)。日本刀も朝鮮出兵以前に倭寇などにより有名になり、中国器械でも「苗刀」という日本刀そっくりのやつが作られるほどでした。日本刀は日明貿易でも珍重された輸出品だったらしい。

といって、日本刀は刃筋正しく切らないとたちまち折れてしまい。戦国時代は切るより叩くだったようですが、それでもヨーロッパの大剣のように、力まかせにぶん回すというわけにはいかず。弓にしても、へんに長くしてしまったので、狙いを定めるべき右こぶしを視界がきかない右肩まで引く必要があり、狙いも矢と的が一致しないとか、まるで努力して当てにくく(狙いにくく)しているみたいになっちゃった。


つまり、日本刀や弓は、「熟達の士」でなければその性能を引き出せない、扱いにくい武器でした。一方で、正しく使えば無類の強さを発揮するため「刀(弓)法の鍛錬」が必要になってきました。

これが「術」の始まりで、「剣術、弓術」が盛んになり。

殺傷力を高めるには、弓の引き方、刀の振り方、といった使用プロセスはもとより、刀を振る人間自身が「本当にオマエは人を切り殺したいのか。切り殺せるのか。」という精神の鍛錬が必須であるということに気が付き。

「勝つってなに?」という問いかけを、24時間繰り返しているのが武士。

戦国の時はわりと単純で「敵方の武士を殺傷する」だったが、そのうち、殺していいのか?正当な理由のある勝ちとは?と悩むようになり。


弓矢が顎から頭を貫通してもがき苦しむ人。「平治物語絵巻」より

きれいごとではなく。自分の振り下ろした刀が当たり、悶絶して死んでいく人を目の当たりにしたとき「この人殺しは、納得できる理由があったのだろうか?」とだれでも悩むと思います。

人殺しの上に成り立った成功と繁栄。精神のバイブルとして、武士道という哲学が発達します(ここでの武士道は、葉隠的な峻烈なやつではなく、新渡戸稲造から現在の少年漫画に至る勧善懲悪的なものを指します)。

ここで、人殺しの術→剣術→人を殺さない道→剣道、に移行していきます。

刀を差すのは、戦国からの人殺しの記憶を保つため。刀の使い方を鍛錬するのは、技量を持つことで、殺すとは何かを意識するため。そのうえで「抜かずに勝つ」。つまり徳すなわち人望、人格で、流血沙汰になる前に和平に達する

重く、扱いにくい日本刀を差すのは、刀の恐ろしい歴史・性質を魂に伝え、殺さない魂に進化するためです。

といって「国のため、主君のため、金のため」からはじまる「説明のつく人殺し」は時代が変わり正義の定義が変わっても人類滅亡まであの手この手で変異して存在してゆき。幕末に至っては、抜きまくり、死にまくりました。ははは

日中戦争でも「便衣隊100人斬り競走」とかありましたが、幸い世界は穏やかになり。「術」から「道」へなんとか転換できた、のでしょうか。


剣道、弓道、居合道の現在は。。。

人をぶったたく剣道も、ちゃんと竹刀と防具があり、殺すこととは程遠く。

ただ剣道の場合やばいのは、竹刀とはいえ人を直接叩きあっていることですよね。。。「剣術の技法にインスパイアされているけど、それは刀の使い方を稽古することで、刀の歴史・性質を振りかえるためだ」と考えてみましょう。一方、居合の稽古の帰り道、精神錯乱した人が刃物を振り回して周りの人たちを刺しまくっていたら、その時は居合刀でさくっと切り殺しましょう→となるかどうかは、この記事を書いているぼく、読んでいるあなた、みんなで考えてみよう。なあんて。居合についてはまた後ほど続きます。

剣道がヤンデレ化する危険性に留意したうえで、弓道です。

結論から言えば「武道に進化しきることのできた幸せな技能」と思っています。

もともとは、刀と同じく人殺しです。


「平治物語絵巻」ですが、この画像を発見したのは「KenさんのBLOGS:

http://crossroad3147.blog79.fc2.com/blog-entry-295.html」です。

 

でも、現在は「的」が相手です。

的です。人ではありません。


「くさじし」といって、鹿の形をした的とかもありますが、生き物を対象にしない選択、というものが弓道では許されています。

というわけで、ほかの武道から一歩進むことのできた、幸せな「アセンション武道」と理解しています。

さて、いよいよ居合ですが。。。

「人を切る想定をしない居合は、居合じゃない。刀踊りだ」という世界です。

居合の先生とロボットが斬り比べをしている動画を見ました。意外と長いので、詳しくはリンク(外部リンク)でご覧いただくとして、要約は


居合の先生(右)の動作をロボット(左)にインプットし、


先生がみかんを切るのと同じように


ロボットもみかんを両断。

ロボットがみかんをさくっと切っているところで、機械でないと居合はできないのだなと納得。これがみかんではなく、ハムスターだったら?先生は斬ることを拒むでしょう。自分の行為が刀踊りだと宣言する事になったとしても。

機械はスイッチを押せばハムスターをさくっと切り殺します。血も涙もなく。

では人間は居合はできないのかといえば、昔は刀を試す、あるいは単にたむわれで辻斬り、犬とかは稽古でさくさく斬っていたようです。血も涙もなくさくっと殺しができて初めて「抜かずして勝つ」ことができたのでしょうか。

居合が殺人武術から修身の武道になるために、あえて人斬りの想定はやめて「みかん」を切ることに専念したほうがよいのかもしれません。

最後に、しっかり見出しを覚えていて、武士道から見た成功とはなんなんだー!という人に:「牛を尋ね、そして仲良しになること」と答えておきます。ははは


このブログの著者はこんな人です。なあんて十年以上前の写真です

ではでは。。。。

Video sobre robô usando espada. O professor de Iai(caminho da espada) faz cortes com sensores no corpo. Robô, acoplado com sensor então aprende e repete o movimento.

Se Iai que não pressupõe corte real (ou seja, matar) não é Iai e vira dança de espada, então somente o Robô será capaz de dominar o caminho. Pois se laranjas da foto for um hamster? O professor recusará matar o bicho, enquanto que robô irá estilhaçar o animal sem piedade nem dó. Mas ainda assim acredito que budo (arte marcial) tem a sua razão de existir, pois das três virtudes da arte (Sabedoria, Coragem e Compaixão), compaixão deve prevalecer, assim o professor que decidiu não matar será o seguidor de bushido por ter sabedoria que robô não teve e coragem de ser chamado de “dançarino” para não matar o animal.

ttps://www.youtube.com/watch?v=O3XyDLbaUmU&fbclid=IwAR2JvbPJAJxkhq0wynLkysY8mzxMhNDjje0eR-I9yyAzBGbqnANKg7VIKBI

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