神は死んだのか / A Fonte-Duchamp

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神は死んだのか / A Fonte-Duchamp

1917年。科学の時代になり「神は死んだ」つまり信仰に基づく価値観から解き放たれ人間自らの判断で世界を発展させた人類は、気が付いた時には世界大戦に突入し毒ガス、機関銃、戦車等によって人間同士で互いに虐殺していた。国家権力の指示に疑うことなく従った人々も、仲間が砲弾で脳みそやはらわたを飛散させてもがき苦しむ、という日常で多数の発狂者を出すに至り「なんかおかしくね? (3.8)」と気づく者もあり。米国の美術展で、ついに「泉(写真)」が登場しました。

ポルトガルの美術館で展示されたレプリカ。

http://pt.museuberardo.pt/noticias/inauguracao-da-exposicao-no-place-home

 

このオブジェには多数の解釈が存在しますが、基本ダダイズム手法による「既成概念の粉砕」「伝統的価値や因襲的形式の愚弄」であり、政府や教会、教師などにより正しい、美しい、模範とされた価値・行動は「支配者による詭弁」そして「このウソを真実と信じた人々が脳みそを飛散せてもがき苦しんでいる」現状に「気付け!こいつらのいう”価値”は”クズ”なんだ!」という叫びが「便器を美術展に出品する行為」になった。つまり「泉」は、権威・有識者という「新たな神」により不条理演劇と化した大戦下の欧州に対するロマン主義的イロニーだったのですね。

ちなみに、ダダイズムとは1910年代の半ばにヨーロッパやアメリカで同時多発的に起きた芸術運動で、上記のとおり世界大戦への抵抗から始まったのですが、ダダのもつ否定・攻撃・破壊は西洋人の思想の根本にまで及びました。

ドイツ人など西洋人は、理性・理論の人たちで、「1+1=2」であり、絶対に2以外の数にはなりません。一方、日本人は「1+1」はその場でみんながこれと理解した数字が答えとなり、昨日は1だったけれども、明日は3かもしれない。時と場所にによっては2.25になったりし、これをうっかり2.23などと言おうものなら、空気が読めないやつとして村八分になります(3.4)

理論(理性)絶対のヨーロッパで育ったけれど、むごたらしく仲間が殺されていく戦時下で、理論に従ったからこそ大惨禍が起きていることに気づいてしまった人たちは、ついに「理論の否定」を試みます。

つまり理性を否定し、作為を否定したのである。「運動の名前を付けよう」ということで、その場にあった辞書を無作為に引っ張り出し、偶然開いたページにあった「DADA」という言葉を名前にしました。

便器が芸術品になったり、コラージュなど無意味な配列で「偶然の芸術」を試みました。

しかし、「無意味な作品」はそうそう作れるものではなく。芸術としてのダダイズムは数年で廃れてしまったらしい。しかし、西洋人らしい「理性絶対!だからこそ理性を否定する」という二元的な試みは、人を不幸にするようなしきたりや無意味な慣習を取り除いた理性への復帰をもたらし、バウハウスみたいな芸術と合理が合体したような動きへ影響をもたらしたらしい。

この時期西洋人は表層意識(理性)の下にさらに恐るべき何か(深層意識)(SpiritualS.1.6があることに気づき始め、フロイトやユングが「無意識」の研究を始めました。

東洋ではアラヤ織などとして古代の昔から探求されていたのですが、声聞・縁覚の修行者を除いて知られることがなくSpiritualS.4.。西洋の理性が、家畜的な無知に埋もれてしまった東洋の智慧SpiritualS.1.4.を掘り起こすというすごい時代になっているようですね。

北朝鮮や中国、日本において、果たして神は死んだのでしょうか。

ちなみに「泉」を初めて見たとき、便器とは気づかずなんか優美な曲線にあふれた素敵なオブジェだなーと感心し、いまでも実は感心しています、ははは(8月15日記)

  1. Após a “Morte de Deus” que acabou com predominância de dogma religiosa na vida do homem, ápice de racionalismo culminou na 1ª. Guerra Mundial. Diante da carnificina, Dadaístas perceberam que valores e morais impostas pelos líderes e bons costumes tradicionais tinham algo de errado a ponto de transformar a Europa em “Teatro do Absurdo”. A obra acredito foi grito de alguém que sobreviveu a época para “Matar o Outro Deus que matava gente na Guerra”, mostrando que o vaso sanitário pode ser arte (e outros, aparentemente arte, na verdade algo que não é), numa manifestação de ironia romântica. Esta obra possui inúmeras interpretações, coloco aqui o meu para reflexão neste dia 15 de agosto. (Por fim acho bonito a forma redonda deste objeto)
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