ラットレースで惜しみなく奪い去られる人々
ラットレース。直訳すると「ネズミの競走」です。
大まかに二つ意味があり。①ネズミ同士でつぶしあっている競争、と②報われることのない不毛な努力を続ける、といったのがあります。
①操られる群衆。「立ってこの所から出なさい(旧約聖書)」
朝の通勤時間。満員電車でおしくらまんじゅうのあと、サラリーマンたちが一斉に駅の階段を上ってゆきます。どこかで見たな、と思ったら、牧童に追い立てられる家畜の群れそっくりなのでした。
人々の表情もいろいろですが、ある種の「安心」が漂っています。
「みんなと一緒。大変だけどそれがいいや」。
家畜も、食料のある場所へ連れて行ってくれ、病気の手当てをしてくれる牧童や、オオカミから守ってくれる番犬が身近にいる群れからはぐれなければ、その日その日は生きていけます。おいしい牧草を食べてまるまる太ってゆきます。
そして最後はと殺されてしまいます。
勤め人の場合は、と殺はされませんし、うまくゆけば定年退職までみんなと一緒にいることができます。
でも「みんな一緒」が実はと殺されるほど苦しい時があります。電車に飛び込んでしまう人、うつ病になってしまう人。いったんうつ病などで群れから離れてしまうと、もとのとおりに「みんな一緒」に戻れないケースも多いようです。
別に、一人だけ宇宙人になってしまえ、と奨励しているわけではありません。
ただ、何の疑いもなく「みんな一緒であるべき。一緒でないのはおかしい」と信じ込んでしまうのが危ないのです。
その思い込みを、牧童よりもっと怖い権力者(上司・経営者・政治家)に利用されてしまうからです。
たとえば
―極限まで苦労して生活費ぎりぎりの給料をもらうのが勤め人(1.3)なんだ。
―これから先、定年はなくなり、生涯現役で働く覚悟が必要だ。
―まわりもみんなそうだから、自分はさらにも増して働かないと申しわけない
―給料は生活のための必要悪であって、人生はお金ではなく働くことこそ人生だ
といった思い込みです。
みんながこう思いこんでいるため、自分も全く疑問を持たずみんなの中に埋没しようとしてしまい、気が付いたら
―ホームから無意識に飛び込もうとしていて、はっと気が付いた
―会社に行けなくなり、公園で一日を過ごしていた
つまり「みんな」から追放された、または無意識に自分からドロップアウトした
という事態になったりします。
実は、「みんな一緒はぜんぜん安全ではない(3.4)」のです。
安全ではないものを安全と思い込まされている」から心身が耐えられなくなってしまうのです。
昔むかし、人類は「王侯貴族と奴隷」に分かれていました。
まず、生きるために必要な衣食住を生産する労働を提供する「人間の形をした家畜」があり、「人間つまり王様や貴族」の生活を支え、富を提供していました。
「人間」(王様や貴族)は自分や周りの人たちと意識的に思索活動を行い、文化、芸術、哲学等を通じ人間としての存在を自覚・確認し高めようとしました。
「奴隷」には「考えることは許されておらず」、とにかくいかに生産するか・労働するか!のみが求められました。
つまり
―極限まで苦労して生活ぎりぎりの報酬をもらうのが奴隷なんだ。
―定年?生涯現役で働く覚悟が必要だ。
―まわりもみんなそうだから、自分はさらにも増して働かないと申しわけない
―報酬は生活のための必要悪であって、お金ではなく働くことこそ人生だ
というのは実は奴隷の属性であって、現在多くの人が知らないうちに奴隷の群れの中に埋没させられているのです。
では、「奴隷」と「人間」の差はどこにあるかというと、「自ら考えるか、他の人から与えられた価値観を信じてしまうか」といった精神面の部分と
*労働しないと生きていけないかどうか
が分かれ目になります。
現在では、ほとんどの場合、みんな奴隷から始まります。
―この段階で、労働し、労働を提供する相手がいないと生きていけない、と思い込まされます(この相手は王様かもしれませんしお客様かもしれません)。
もちろん、最初は給料なりを王様などからもらうところからスタート(1.2)します。
*でも、給料自身(お金自身)に働いてもらい、自分が給料(お金)に対しての王様になることができる。といつか気づきます。
その時が、ラットレース脱出のスタートです。
「アテネの学堂」。考える葦であることを自覚(SpiritualS.1.1)したとき、
ヒトは動物から人間に進化する。
②終わりのない努力からの脱出
古典的なラットレースのイメージ図です
ハムスターホイールというのがあり。ハムちゃんが元気よく回しています。
狭いケージで生活しているハムちゃんは、ホイールを回すことで森の中を走り回っている感じになり、本能を満足させることができます。
でも、走ったぶんだけホイールの回転に奪い去られてしまうので、実は同じ場所から一ミリも進んでいなかったりします。
人間の場合でも多くの人が「ハムスターホイール」を回しています。
本人は必死に努力して労働とその成果を誰かに(会社に、上司に、お客さんに)渡しています。
全速力で疾走しています。でもその成果はすべて取られてしまうので一ミリも先に進むことができません(3.15)。
「みんなそうだから」と安心していると、定年退職でホイールからけりだされ、一歩も進んでいなかった?これからどこにいったらいいの?とぼうぜんとするかもしれません。あるいは、本当に死ぬまで必死にホイールを回し続けるかもしれません。
しかし、だれかに渡されたホイール(労働とその収入)への依存から脱出して、道なき荒野を駆け出したとき(不労所得獲得に着手したとき)、プラスマイナスは別として自分が努力したその成果を自分自身で確認し、糧として活用することができるようになるでしょう。
チャップリンの「モダン・タイムス」
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