お金がある世界の発生。人間が動物を超えた理由

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お金がある世界の発生。人間が動物を超えた理由

ひところ「田舎暮らし」「自給自足」がはやりました。都会でのストレスフルな生活(3.4)から離れて、健康的な生活を送りたい、というそれ自体はぼくも心から賛成するのですが、しかし挫折して元のリーマン生活に逆戻りという人が後を絶たず。うまく再就職できていることを祈っています。

なぜ挫折するのでしょうか。近所付き合いが大変、という以前に、農作業がきつすぎ、買い物など不便すぎ、ネズミ・害虫などに耐えられない、夏暑すぎ、冬寒すぎで菜園づくり以前に家から出られない。しゃれたカフェ、レストラン、娯楽施設がなく、あっても労働しているだけで一日が終わってしまい結局何のために田舎に来たのかわからなくなっちゃった、という理由が多いそうです。

つまり、都会生活に耐えられなくなり、その反対が解決だ!と早まってしまったのが失敗の理由なのです。耐えられなくなったのは、実は勤め先でのストレスであり、都会のいろいろ便利なストラクチャーは快適な生活のために必須なのに、すべてをすてて田舎に行ってしまったため、尋常でない自給自足生活の労力に耐えられなくなってしまったのです。

都会では、現代人の生活に必要な物が簡単に入手できる

キーワードは「勤め先でのストレス」「自給自足生活の労苦」 です。都会で生活している限り、運よく勤め先を変えられたとしても、「鍋が変わっただけ(3.4)」でストレスは変わらないので、全く別の新天地に。。。という気持ちはわかります。しかし、いったん都会生活に慣れた人が自給自足の尋常でない労苦に耐えられるというケースは少なそうです。

なぜ自給自足がそんなに大変なのでしょうか。それは「都会で分業して行っていることをすべて一人で行わなければならなくなる」ためです。

縄文時代は狩りや木の実を採集していた人々。当時はあまり分業というものはなく、みんなで協力して狩りをしたり、皮をなめしたりあるいは木の実をとったり。つまり、みんなで共同あるいはおもいおもいに同じこと(あらゆること)をしていました。弥生時代に稲作農業(生産手段)が伝来し、上下の社会関係がでてくると、耕す人と命令する人という分業の兆しが現れます。時代が進むと品部(しなべ)といって、いろいろな職業が現れ始めます。織部(呉服)、薬戸、船戸などなど。

これは、人々の生活が高度化するにしたがって、専用の道具や技術が必要となり、一人ですべてを行うことが不可能となるからです。皮をなめすのは「歯でかむ」つまり誰でもできました。しかし、麻だの絹だのとなってくると、繊維を作る人、針を作る人、そしてそれを織って布にする人、最後に着物にする人、など社会的分業がどんどん普及し、人々は得意な分野に専念しだします。

狩猟から畜産へ。生産手段の獲得は、社会的分業を不可避にした

畜産の得意な人がウサギを持って、着物作りの得意な人と交換すると、どちらも需要が満たせて大喜びになります。こうして物々交換が始まりました。

しかし、①そもそもウサギを持っていて、着物と交換したい人と、着物を持っていて、ウサギと交換したい人がめぐりあわないと物々交換は成立しない(これを「二重の一致」と言います)、②ウサギ一匹に着物一枚なのか、二枚なのか、③うさぎが腐っちゃわないうちに交換しなければならないし、といろいろあり。交換のたびにあーでもないこーでもないと悩むことになります。

そこで、人々は貨幣を発明しました。ウサギの現物を持ち歩く代わりに、ウサギ1匹分10円として、10円玉を持ってゆけば、着物が1枚もらえるようにする。ウサギ1匹が着物二枚に該当する場合は、5円玉を出せば着物一枚がもらえる。つまり、貨幣の登場で、 モノの交換に必須な(1)価値基準 (価格の基準) 、(2) 交換・流通手段(お金はうさぎだろうが着物だろうがなんにでも交換できます) (3) 価値貯蔵手段、を持つ媒介物が生まれました。

お金の発明で、人間は物々交換の重荷から解放された

必要なものを作らなくてもお金でいつでも買えるようになり、どの程度のお金があれば買えるのかの基準も明確になりました。お金を得るためには自分の得意なことに専念してどんどん稼ぎ、余ったお金は貯めておくことができるようになりました。

専門化はどんどん進み、産業を形成します。乗り物にしてもインディアンの時代は野生馬を飼いならしていましたが、現在は自動車になり。自動車を作るには、ゴム産業、鉄鋼業、ガラスなどの産業の成果を統合する必要があり、もはや人一人の生身の力では作りようのない精巧な工業製品となっています。

ちなみに、工業製品を一人で作ることはできないかと実験した人がおり。自分で鉱山に鉄や銅を掘り行くことから始め、9か月かけて何とかトースターを作ったらしい。製作費は15万円だそうです。

トースターは一人で作れるらしい(「ゼロから

トースターを作ってみた」トーマス・ウエイツ)

つまり、現代人の必要とする生活レベルは「一人だけの」自給自足では達成できないのです(自分で生産・自足できないものはお金で買う、と割り切れば別)。田舎の人間関係が濃い、というのは、田舎の不便な部分を相互で補っているという意味なのです。そういう濃い助け合いが好きな人は田舎暮らしも楽しいと思います。

従って、会社の人間関係に疲れた、では、都会を離れる理由にはなりません。都会にいながら、会社の人間関係を逃れる算段をする必要があるのです。

結局、このホームページのお題である経済的自由を達しなさい、ということになります。不労所得で経済的自由を達成していれば、都会にはいても会社にいる必要はありません。自由になった身で、田舎が好きなら好きなだけ田舎に遊びに行き(Blog34)、疲れたらまた都会に帰ってくればいいのです。

この気づきSpiritualS.1.1を、ぜひ具体化1.10してみませんか。もちろん簡単ではありませんが、北朝鮮のような強権国家でなければ、誰にでも機会は開かれています。。。

ではでは。

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