久しぶりに、美術についての記事を投稿します。
今日のお題は、「海」
さっそく海の絵画、ではなく、とある料理人のお話をさせていただきます。
その名も佐野実。
がんらいは洋食屋さんになりたかった。もし裕福な家に生まれて、開業資金が潤沢だったら、最初からフランス料理店かなんかを開いて、いまごろはミシュラン5つ星(なんてないか)みたいな、世界でも有名なシェフとして語り継がれていたのではないかと思います。
でも、現実では開業資金がなく。「しゃあねえ、ラーメン屋でも開いて種銭をかせぐか」とやったのが運の尽きで、当座の腰かけ稼業、おあそびくらいにしか考えていなったラーメンが「あれ、思ったように作れない?」
こんな、料理(フランス料理)にもならないような、脇役、前座の類なのに、これまで修行した料理の知識をもってしても、なぜだ?
気づいた時には、あわれラーメンの魔力に取りつかれてしまったのでした。
その後「支那そばや」でラーメンの頂点を極めたのは、あまりにも有名と思います。
「ラーメン人物伝 一杯の魂 ISBN-08-85937-X」
で、やっと海です。
ネプチューンとアンフィトリテの勝利(1634年)
あれ、全然海じゃないじゃん。いやいや、ちゃんと背景は海ですよー。
この絵が、西洋人にとって、海とは何か、という原点を雄弁に物語っています。
西洋人にとって「神は神に似せて人を作った」時から人間が世界の主人公であり。
海など、人間以外は絵画の中の背景、人間を引き立てるための脇役だった。デッサンがそこそこできるようになった弟子に描かせて、先生は人物に全力を。。。。みたいな感じでした。
でも、そのうち、背景なんてお遊びと思っていたが、これがなかなか。。。。と、風景自体の魔力に気が付き。
風景絵という独立したジャンルが生まれました。
「波」1869年
「波」1869年
ここまでは、言わずと知れたグスタブ・クールベ
アイヴァゾフスキー「黒海」1881年
アイヴァゾフスキー「ビアリッツ海岸」1889年
チャールズ・ネーピア・ヘミー 「A Waste of Waters」1907年
チャールズ・ネーピア・ヘミー 「A Westerly Wind」製昨年不詳
こうした絵を見ていると、まさしく文字通りの「怒涛の迫力」に圧倒されます。
こうしたすごい絵画が生まれる背景に、西洋人の魂の根底となっている、あるものがあり。
それが「聖書」
「新約聖書」「旧約聖書」がありますが、ここではユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つに等しく重要な「根拠規定」になっている旧約聖書を取り上げます。
「旧約」というのは、キリストが生まれる前の、神と人との契約、という意味です。
西洋人はアダムとイブの時代から契約社会に生きてきたわけである。
悪い女にそそのかされたアダムは契約違反を犯してしまい、女ともどもエデンの園を追放されてしまいました。
その子孫も、先祖に似てしょうがないやつらばっかりだったので、神は怒り。巨大津波を起こして人類を抹殺しました。
でも、神は慈悲深いので、正義の人(つまり神の契約を守る人)ノアとその家族は誅殺を免れました。
なのに、ノアの子孫はやっぱりしょうがない奴ばかりで、神は怒り。異教徒のエジプト王をけしかけて、イスラエル人を奴隷としてひっとらえさせました。
でも、神は慈悲深いので、モーセを筆頭とする正義の人たちには、「出エジプト」つまり脱走の機会を与えました。
という「法律違反→懲役→釈放」という物語が延々と続きます。まるでディズニーの子供マンガみたいに、手を変え品を変え、ある物語では「ミッキーがバナナの皮に滑ってすってんころりん」だったのが、別の物語では「ドナルドダックがバナナの皮に。。。。」みたいな感じで、ストーリーはみんな同じだった。
ディスニーの子供向けマンガ
http://blogmaniadegibi.com/wp-content/uploads/2018/06/disney-abril.jpg
なぜそうなるかというと、西洋人は自我が強すぎて、いくら「神の法律を守れ」といわれて、本人も「へりくだって神に従っている」と口では言っても、知らないうちに「わしが法律じゃい」になってしまうためです。
この自我によって、神と自分、私とあなた、というふうに下手な区別を行ってしまったため「自分ではない誰か(神)の作った規則をまもらなきゃ」という、どだい履行できない義務が発生してしまい。
勢い、上記のもろもろの海景画も、「私と海」つまり自分とは別世界のものを眺めている、という冷めたものになってしまい。いくら迫真に迫った嵐に荒れ狂う海の絵も、それは海という被造物(自分以外の物体)の図面であって、美術館(あるいはパソコンの画面。ははは)で眺めている自分はその絵の1.5m先にちゃんと立っています、という疎外感がぬぐえず。
そんな行き詰まりを感じていた西洋人の前に、青天のへきれきをもたらした絵があり。
葛飾北斎 「神奈川沖浪裏」1831頃
浮世絵です。
怒涛の大波と、飛び散る飛沫。櫓にしがみつく船乗り。波にもまれる三艘の船。おもわず水しぶきに濡れて、大波を逆落としになったような感覚になり。ジェットコースターみたいに、「きゃー!」なんて叫びそうになります。
日本人には、がんらい「法律を押し付ける絶対唯一の神」なんてのはなくて、なすやらきゅうりやら、その辺の草、隣の牧場から逃げ出してきたのら牛、山や川、すなわち自然のすべて(人間自身も)が「八百万の神々」であり。やれお盆だやれクリスマスだと、節操もへったくれもなく、その場のノリでどうとでも変化し。論理で構成された行動というのは苦手です(別の言い方では、習慣やしきたりを論理と誤解している)。
絵画においても、人物と背景がごっちゃに、混然一体として溶け込んでいるのでした。
絵画と鑑賞者が一体化し、変幻自在な情動、情感、躍動がそのままほとばしる、「内面から見る人を揺さぶる絵」が生まれるようになり。浮世絵は一つの究極と思っています。
第二次大戦時、アメリカがドイツと日本の本質に迫る、恐ろしい評価を行いました。
「ドイツ人は45歳の成熟した成人。日本人は12歳の未熟な少年」
この言葉は、実はドイツ人(そしてアメリカ人自身)の狡猾さを、日本人の純真さに比べることで戒めるという意味もあるのですが、この項の本題ではないので別記事に記載しました。
ここで重要なのは
西洋人(45歳の成人)は、海の絵を描くとき、どうしても論理から入ってしまう。その気はなくても「地球上の陸地以外で、海洋に満たされ、77.74%が塩化ナトリウム、10.89%が塩化マグネシウム。海流はコリオリの力によって、北半球では時計回りに。。。(Wikipedia)」という客観的事実をいかに精緻に視覚化するか、という方向に行ってしまい。
日本人(12歳の子供)は、論理思考なんてなくて、「海」と言われれば「怒涛の大波と、飛び散る飛沫。水しぶきに濡れて、逆落し。ジェットコースターみたいに、「きゃー!」」という、情動・内面(主観)からの表現になります。
西洋人は、絵画が製図になってしまっていたことを自覚して悩んでいた時に、アートをぶちまけた浮世絵に出会い。そのアートを、今度は西洋人の実効的な手法で至高主義絵画などに進化させていった。
マレーヴィチ「シュプレマティスト作曲No.56、1916」
一方、アートで黒船や蒸気機関車、最新式の軍隊は作れないと思い知った日本側も、幕末に著書調所(ばんしょしらべしょ)、明治になってからは東京美術学校で「製図技術としての美術」を研究するようになり。こんな絵が生まれました。
高橋由一 「鮭」1877年頃
浮世絵では不可能な克明な描写です。こうした描写力の獲得によって、当時の日本は西洋の大砲など、国運を左右する精密機械の図面を理解しようとしていたのですね。。。。
洋の東西で、それぞれ追い求めていたものを、浮世絵、写実絵画でそれぞれ発見し、学び取っていった。人間ってすごいな、と思います。
3000字越えで打ち止め。最後に、西洋絵画ってなんか暗い(落ち着いている)のに、日本絵画ってあっけらかんで明るいですよね。
こういったあっけらかんさが日本人に戻って、いじめだの引きこもりだのがない日が来ることを願っています。
ではでは。
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