武道と武術
世の少年たちが追い求めてやまない願望に「強くなりたい」というのがあり。
「ドラゴンボール」が世界のベストセラーになったことでも明らかと思います。
スーパーサイヤ人
https://www.pixiv.net/en/artworks/25104348
もとは野獣だった人間が、生存を賭してはぐくんだ闘争本能は、理性的な「ヒト」に進化した今日でも、体の奥底に生き続けているのだと思います。
そんなわけで、興味の度合いには個人差はあるけれど、男の子ならみんな大好きなのが「格闘技」
ほんとうに道を究めて「カンフーマスター」とかになるのもいますが、だいたいはマンガや映画で満足、というのが多いようです。
クソガキだと、街角で本当に殴り合いのケンカをし、長じてはヤクザにケンカを売って叩きのめすことを生きがいにするなんて言うゆがんだ成長をするのもいることはいる。
もっと育ちのいいのは、スポーツなどで「強さ」を競います。中間が空手だの剣道だのと言った武道系かもしれん。
いずれにしても、剣山を腹に仕込んでおいて、相手のパンチを食らったときに、こっちも血へどを吐いてうずくまるが、相手もこぶしに剣山が突き刺さって絶叫だ!という世界から、防具で保護された部位を、竹刀による冴えた打突で、撃たれても痛くない、という世界に変ってきました。
人間が野獣からヒトに変わっていくに従い、「勝つとは何か」という、求めるものも変わってくるのである。
石器時代とか、マントヒヒやハイエナと食料の奪い合いをしていたころは、猫が蛇をやっつけるのと同じように、本能そのままの格闘だった。その目的も、物理的に敵を叩きのめすという事以上でも以下でもなく。
猫と蛇の戦い。https://www.youtube.com/watch?v=LnWxQ4wZMvs
火や道具の発明で、動物に対して絶対的な優位を勝ちとった人間ですが、今度は人間同士で格闘が始まってしまい。
カラリパヤットとか、クラビークラボンとか、世界で「格闘に勝つための技術」が発達しましたが、結局は「史を歴する国」中国で、こうした技術が記録され、伝授されながら「中国武術」として世界に類を見ない発展をしました。
こうした武術は、戦時では合戦を生き伸びるため、平時では護身の術として活用され、すさまじい数の流派が生まれ。
ところが、その辺の女子供がピストルで5メートル先の警察官を射殺する世の中(ブラジルの貧民街)になると、武術の有用性も薄れてしまい。
現在では、少林寺など、文化遺産として継承していく人たちを除いて世界の表舞台からは消えていく傾向にあり。
変わって柔道だのがオリンピック種目になったりしています。
柔道がストリートファイトで最強だからというのではなくて、柔道の持つ「闘争を和合に変える」部分が、闘争ではない心身の鍛錬として、現代にマッチしていることから受け入れられたのだと理解しています。
剣道の場合は、オリンピック種目への指向はしていません。ポイント制の身体技能競技ではなくて、武士道の探索を主目的としているからです。
中国功夫と日本の達人の対話。映画 Fearless(SPIRIT)
https://www.youtube.com/watch?v=oWZMCOvMnK0
すごく偉そうかつ抽象的になってしまった。
全剣連から理念を借用すると
「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」
いよいよあやふやだぞ?
「心構え」に行くと
「心身を錬磨して旺盛なる気力を養い
剣道の特性を通じて礼節をとうとび
信義を重んじ誠を尽して
常に自己の修養に努め
以って国家社会を愛して
広く人類の平和繁栄に
寄与せんとするものである」
「国家社会を愛して人類の平和繁栄」は右翼、GHQや共産党といったセクトに対する言い訳なのでここでは掘り下げませんが、その上の「旺盛なる気力、礼節、信義、修養」はまさに剣道のみならず武道の本質を文章化した部分と理解しています。
武術の話から武道に進化してきました。
進化、というのは、武道が「敵を倒すための技術から、自己修養の道に変化した」ことをさしています。
要すれば、武道なんてのは瞑想と同じである。「動き禅」といって、このブログの読者のみなさん(作者のぼくも含めて)のようなクソガキたちが、竹刀をぶんぶんふりまわすお遊戯をやっているうちに、いつか体育から精神の鍛錬に移っていく、というすごいところがあり、これが海外でなかなか剣道が人気の理由と思います。
武術は人殺しの技術である。
この差を雄弁に物語るのに、映画「バース・オブ・ザ・ドラゴン」の1シーンがあります。
ブルース・リーの伝記映画で、アメリカの空手大会に乱入してチャンピオンと対決する、という場面があり。
以下の動画の33:39あたりから35:20あたりに、武術(カンフー)と武道(空手)の差が見事に表れています。
映画としての脚色はあるのでしょうが、この映画を作った人は、武道と武術の差を知り尽くしている人と思います。
画像で解説します。動画もご覧ください。
出典はhttps://www.youtube.com/watch?v=vbcbMr24HWE
さて、両者構え合ったのが下の画像。
空手家が正拳突きを食らわしたところ、猫みたいにひらりと横にかわし。
後ろからパンチをくらわしたのでした。ははは
後ろからの正々堂々!パンチをもうひとつ。
動画では、相手の正面を突いている技もありますが、ご覧いただければ、だいたいが空手家がまっすく入ってくるものを、「ちょうしゅ(聴手)」でからみついて、斜めから横から後ろから急所を狙っていることがわかります。
映画なので爽やかに終わっていますが、実際の格闘だったら、空手家は目をつぶされ、喉笛をつぶされ、手足の関節をへし折られ、き◎たまを蹴り上げられ、断末魔にうめいていることでしょう。
武術は護身術です。相手の動きを外し、横から急所を狙うのが最も効果的であり、その通り実践したのがこの動画でした。
武道の方はどうかというと、下の動画のように、中心から攻め合い、クリンチになったら離れる。横や後ろからの攻撃はしない。
武術でクリンチになったら、あっとうまに目玉やき◎たまをつぶされちゃうので、そもそもクリンチにはならないと思います。武道の方は自然に間合いが詰まってクリンチになり、自然に間合いを切って戻っています。
https://www.youtube.com/watch?v=vayusfVov5U
この辺で結論です。
武道の場合は、真っ向中心から攻めあって、修練の度合いが高い方が勝つ。打って感謝、打たれて感謝の世界です。
*感謝というのは、勝っても負けても、自らの修練の度合い、上達しているところ、未熟なところ、思わぬ盲点など、対戦相手に教えてもらえるからです。
武術の場合は、感謝なんてゆうちょうなことを言っている暇はなく。
勝負が終わったときには、自分は茫然と立っており、地面には目だまを飛び出させた相手が断末魔でのたうち回っている、という世界です。
こう書くと、いかにも武道の方が上みたいですが、武道は武術から武徳の修養を抽出したエッセンス版であり、武術は武道も含む要素が詰まった複合版と言えます。
だから、本物の功夫であれば、武道家が相手であれば武道としての中国武術を駆使できるものであり。上記の映画のような行いは「己の未熟さを観衆にさらけ出している」ことになるでしょう。
このへんが、中国の奥深いところであり、日本が学ぶべきところかと考えます。
古来より、中華帝国は漢、唐、宋、明と、東洋に向けては仁義礼智の模範となり、西域にあっては東洋文明の防波堤となり、北には長城を持って農耕文化を守り抜き。
元や清と、異民族に征服されたと見えても、漢人の徳と知性は、いつしかこれら異民族を漢化して、かえって中華文明の威光を世界に示しました。
しかし、清末に至り、上は皇帝から下は貧民に至るまで風紀の乱れ、精神の汚濁はすさまじく、西洋列強の半植民地になりはて。
これを漢の武帝、明の永楽帝他賢帝が見たらどう思うでしょうか。
現在では、共産主義の美名のもと、マルクスの描いたものとは全く異なった恐怖政治の人権蹂躙による「東亜の病人」になりはて。
幸い、台湾が中華の伝統を守り続けており。東亜の師としての中華はまだ生き続けています。
大陸が、いつか解放されて、中華の輝きを取り戻すことを願っています。
中国の徳を日本が仁に発展させたことについてはこちら
東亜の徳性、日本の魂が西洋を驚かせたことについてはこちら
中国おそるべし→孫氏
ではでは
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