ホキ美術館という、電車か?みたいな名前の美術館があり。
電車ではなく、貨車でした(ホキ2200)
出展:100yen – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8249281による
「超写実主義絵画の襲来」というすごい展示があったらしい。下記サイトをお知らせします。
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/20_choshajitsu/
この展示の「見どころ」というところに、「それぞれの画家が表現したい想いが込められた作品は、ただ細密に描かれているだけでなく、写真や映像とは違った存在感を醸し出します。」とありました。
で、どんな細密な絵が出展されているかというと(いずれも上記サイトからの引用)
五味文彦 《いにしえの王は語る》 2018年 油彩・パネル
森本草介 《未来》 2011年 油彩・キャンバス
島村信之 《オオコノハムシ‐擬態‐》 2014年 油彩・キャンバス
いずれも写真ではなく、絵画です。すごいな。
偉そうですみませんが、こうした超写実の勃興はとても良いことだと思っています。
もともと絵画(の主流である西洋美術)は、聖書の物語、ナポレオンなどの英雄そして自由や平等などの価値観の寓意化・擬人化から出発しており。マリア様だろうが自由の女神だろうが、本当に存在している人間のようにリアルだ!だからこそ、物語や英雄が真実以上の実在として見るものを圧倒し、インパクトを魂の奥底に刻み付けることができた。ルネサンス以降の絵画は、イコンみたいな記号ではなく「迫真の写実」が基本中の基本でした。
ところが、写真が発明され。最初はピンボケ、白黒だった写真も、鮮明なカラーへどんどん発展してゆき。いくら技術の卓越した画家でも、画質はもとより、新聞だの雑誌だので何万部を一気に複製できる写真には物理的に追いつくことは不可能になってしまいました。
そうした趨勢から、焦点がぼやけているように見えるけれど、楽しく光たちが踊っている印象派絵画、一つの画面にいろいろな視点からみた映像をぶち込んだキュビズムなど、具象の分解・再構築が始まり。カンディンスキーに至って、点と線と面のコンポジションへ移行し、具象よりも色、形そのものの構成で一つの作品を構築するようになった(音符が集まって一つの曲になるような感じ)。
カンディンスキーの「コンポジションVIII」
ここで美術は具象(写実)から解放されたが、抽象となると、何でもありのやばい世界に陥ってしまうことも発生し。
単に絵の具をぶちまけただけの絵。気味の悪い化け物とか、汚らしい意味不明の模様だけの絵。これらの絵をみて、確かにすごいインパクトはあるのですが。それはホラー映画を見て絶叫しているだけみたいな?という気がします。
じゃあ、カンディンスキー以後の流れをくむ「本物の抽象」と「抽象もどきでお金を稼いでいるだけの絵」の差はどうやって見分けるのでしょうか。
その1:チェスのお話
ゲーム開始時点では、上の写真のように4行のスペースで白と黒のそれぞれの陣営が分かれています。
チェスの場合、将棋と比べて盤面が小さい(将棋は9列X9行、チェスは8列X8行)などあり、駒どうしで押し合いへし合いになり。いかに自由に駒を動かせるスペースを作るかが勝敗を左右するという特色があります。
つまり、いかに早く下記の青い四角の中をコントロールできるか。そのためには下記の赤い四角を制したものが勝つ!ということがわかってきました。
というわけで、西洋絵画の基本が写実だったように、チェスでは上記の赤い四角内にポーン(歩)を進めて「センターをコントロールする」のが基本の基本となりました。
伝統的なチェスの開戦状況。白、黒ともにポーン(歩)でセンターを確保し、ナイト(馬)等で支援している。
ところが、写真の登場で写実ががらがらぽん、と瓦解したように、「ハイパーモダンな遠隔戦法」が発明されて、中央突破は神通力を失ってしまいました。
写真では、白が伝統的な中央進撃、黒がハイパーモダンなナイトによる遠隔操作です。アリョーヒンという人があみだした戦法です。
でも、これって、へたくそな初心者がテキトーにナイトを繰り出しただけじゃね?
まさに「自称抽象画と言いながら実はキャンバスを汚しただけだった」みたいに。
アリョーヒンさんが、この「馬送り戦法」を繰り出したとき、誰もがそう思ったのですが、中央を確保して絶対優勢のはずの白陣営がけちょんけちょんにやられてしまい。
「これって、きまぐれに馬を置いたんじゃなくて、ここに馬を置いたからこそ勝つというセオリーがあるんじゃ。。。」と気が付きました。
つまり、白が中央に置いた駒を、黒は遠くから袋叩きにして自由を奪ってしまい、逆に戦局をリードしていたのです。
この馬は、中央の呪縛から逃れて、かえっていきいきと活躍している。
まさに、具象の呪縛から離れた絵画のように。
抽象画でも、本物であれば「アリョーヒンさんの馬」みたいに裏付けがあり、あるべきところにあるべき線、面、点そして色がおかれ、過不足のない、エッジの立った、迫力のある、要するに「名作という意味でのすごい絵」になるのです。
その2:「筆が勝手に動いて、そのあとに説明がくる」。その筆を動かすものは?
アバンギャルドな絵画の革命をもたらした始祖鳥の一人に、サルバドール・ダリがいます。
ダリ「建築学的ミレーの晩鐘」
この人は「子供の時、突然友人を5メートル下の川に突き落とし、重傷を負わせた」「そのあと、母親が必死で手当てしている横で、にこにことサクランボを食べていた」みたいな「相当壊れた人」で、長じても絵画よりパフォーマンスのほうで有名になっちゃった。
真面目な表情の写真がないことはない
インスピレーションで勝手きままに絵をかきまくり、「説明はあとからついてきた」というタイプですが、そんなダリでも次のような名言を残しています
「昔の巨匠のように素描をし、描くことを学ぶことから始めよ。そのあとで自分の思うようにすればいい。そうすれば誰もが尊重するだろう。」
「もし、君が現代アートはフェルメールやラファエルを超越したと信じるなら、その至福の愚かさに固執しているがいい。」
つまり、
「勝手気ままな筆の動きでも、その動きには必ず裏付けがあり。その裏付けには昔の巨匠の筆遣いが生きている」
ということですね。
また書くスペースがなくなってきちゃった!要するに何を言いたいのかというと
◎抽象画を理解するには、抽象画という結果ばかり見ていてもだめ。抽象画の由来(基礎)である 写実絵画を見まくる必要がある。
◎写実絵画を見まくると、細かいデイテールに隠れた「絵の核」が見えるようになってくる。抽象画は、この核だけを抽出してぶちまけた絵であるため、抽象画を見て、核が描けていればほんもの。描けていなければただの「しみ」です。ははは
◎十分に写実画を見る目が養えたかどうかは、超写実絵画のどこが写実を超えているか見分ける力がついたかどうかでわかる。
超写実の一例:
このパッケージのポテトチップは、写真ではなくて絵なのだそうです。
写真だと、どうしてもちょっと黒ずんだ点があるとか、見えないくらいだけど欠けちゃってるとか、チップの微妙な曲がり具合で見栄えが落ちちゃうとかがあるらしい。
つまり、「超写実絵画」になっていて、写真を超えた「パリッとおいしい」を表現している。
そして、この絵だけが表現できている「パリッとおいしい」を見抜ける人は、「パリッとおいしい」をお題にした抽象画を見た時、うあああーとそのエッセンスに打たれる、という体験ができる、ということなのだと考えます。
エッセンスに打たれる。
れんげではなく、れんげですくったスープに打たれています
最後はラーメンになっちゃいました。この絵の出展は「ラーメン人物伝―一杯の魂1」です。
もちろん僕も抽象画なんて全然意味不明だぜーのレベルですが、写実画をいっぱい見て、抽象画鑑賞力のレベルを上げていきたいと思っています。
このお題は、この記事一本ではとても説明しつくせないので、姉妹記事をまた別にアップさせていただきます。
ではでは。。。
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