タロットに見るアートのエッセンス

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誰もが知りたい未来の秘密。運命のゆくえを紐解くタロットカードは、IT時代の今日でも世界中で親しみを持って使われ続けています。

中世から現代まで、いろいろなタロットが生まれ。一枚一枚のカードを彩るアートも、千差万別のバラエティに富んでいます。

例えば、1番最初のカード「魔術師」にしても


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左から、ウエイト版、エジプト版、神託のタロット

 

 

和製の「軍国百人一首かるた」みたいなのもあり。


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名前からしてアートです、みたいな「アールヌーボー版」なんてのもあったりします。


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時代や地域によって変化する美的感覚で、いろいろなタロットがもてはやされてきました。今日の日本でもてはやされるタロットは、たぶん上のアールヌーボーとか、こんなのではないでしょうか?


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かわゆい猫タロット

 

 

一方、浮世絵の美人と、現在の美人のイメージが必ずしも合致しないように、時代時代の美的感覚にマッチしたタロットは、時代が変わればあまり顧みられないようになり。代わって新しい時代にマッチしたカードが登場。

現在ポピュラーなカードがウエイト版との理解です。「1909年にロンドンのライダー社から発売され、イギリスでタロットと言えば、ほとんどこれを指すほどになった(Wikipedia )」など、いくつかの国では代表的なタロットの地位を築いているようです。

一方で、「1650年頃(Wikipedia )」と、現在とは美的感覚も相当違っていたはずの時代に生まれながらも、多くの愛好家から「タロットの源泉」「あらゆるタロットの中で最も本来の姿を保っている(Wikipedia)」すなわち「本物のカード」として、現在でも主役の座を明け渡さない、すごいカードが存在します。

それが「マルセイユのタロット」


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マルセイユのカードは、絵柄はちょっとおどろおどろしいけれど、圧倒的な迫力をもって迫ってきます。「猫タロット」が、かわいいいいいい!だけど、「かわゆい」の一言で終わってしまうのに比べ、マルセイユのほうはカードをめくる一人一人に、魂の奥底から揺さぶるようなインパクトを与えています。そして、カードの奥底から放射される恐ろしいエネルギーをもって、観る人を虜にしてしまう。そんな魔力を秘めたカードです。

その魔力は、どこから出てくるのでしょうか。

マルセイユのカードがアートなのは、マルセイユがアートになろうとしなかったことこそにその源泉があるのだと思います。

以下、マルセイユ版「魔術師」についての考察です。

机の上に、ナイフやコイン、カップなどが並べられています。

これらの品物は「火・風・土・水」すなわち万物の元であり。魔術師が若者であることとともに、「すべてのスタートであり、無限の可能性が広がっていますよ」という意味なのです。

ここで、他の版との違いが浮き彫りになります。ウエイト版のように、比較的忠実に机の上の物品、つまり「どのような存在にも変化しうる未来」を示したものもあれば、猫タロットみたいに机(変化が起こる、スタートの場所が用意されましたよ、というメッセージ)が最初から無い、なんてカードもあります。同様に、アールヌーボーも、アートとしては美しいけれど、美しい青年とその付属物の絵、になってしまっていて、マルセイユ版のような生々しいメッセージの提示はなくなってしまっているのでは?と思います。

まあ、マルセイユ版を使い倒して、そのうえで他のカードを使うなら、例えばエジプトタロットの机にある壺は要すればカップであり、神話タロットでお兄ちゃんが持っているろうそくは、本来であればワンドなんだな、と合点がいくものと思います。

つまり、マルセイユ以外のタロットは、マルセイユにインスパイアして、見栄えをよくした各時代のポップアート、という事なのかもしれん。

いわゆる一つのポップアートの金字塔として「50年代アメ車」があります。



平べったく巨大な車体と、巨大なテールフィン

画像出展はいずれもhttps://web.motormagazine.co.jp/_ct/17440107/album/16798476/image/16928828

 

 

つまり、50年代では、こうゆう走行性能とはあまり関係ない、巨大な、装飾でゴテゴテの車が「かっこいい!」日常の足だったわけで。

でも、今日では「博物館で見る美しいクラッシックカー」ではあっても、これで日常的にスーパーにお買い物、というのは、ちょっと抵抗があるのではないでしょうか。

一方で、さらに前の1930年代に作られたのに、多くの国々で、まだまだ日常の足として「おしゃれだね」という車が存在しています。

このブログの読者であれば、すでにお分かりですよね。。。。


世界の名車かぶと虫。

パン屋さんへ行ったら、もう一台、うすこげ茶?のが駐車していました

 

 

かぶと虫には、50年代で流行したテールフィンはないけれど、テールフィンの流行が去っても、車としてのエッセンスはずっと持ちづつけていたので、今日まで現役で残り。街角でちょくちょく見かけます。部品とかもフツーに生産されていて、これは工業面から言えば画期的な現象らしい。

マルセイユ版タロットが今日まで残っているのも、すべてのタロットの源泉となるエッセンスが隠されているからと理解します。どんなエッセンスがあるのか?そしてどこに隠れているのか?

マルセイユ版と、ウエイト版を見比べてみましょう。


 

 

ここでは、マルセイユ版のおにいちゃんの帽子に注目してください。

なかなかおしゃれな帽子じゃん?いえいえアートな帽子を目指しているのではなくて、∞を図案化しているのです。

∞すなわち「無限大」。そんなわかりにくい「絵解き」にしないで、ウエイト版みたいに、兄ちゃんの頭の上に∞と描けばいいじゃん?

いえいえそういうわけにはいかないのです。

マルセイユ版が成立した時代は、中世の封建主義から大航海時代の絶対主義王権が確立されていった時代であり。教会あるいは絶対君主がキリスト教の名において独裁的な政治を「合法化」していました。

この時代は、「神の作りたもうた秩序が永遠に続く」ことこそが正義であり。唯一ひっくり返すとすれば「終末のラッパが鳴り響く」黙示録の時代が到来した時で、いつ到来するのかは「神のみぞ知る」なので、ともかく「今日を牛馬のように働け」そして「そのまま生涯現役で働き、廃人になって死んでしまえ」という事が「キリストの教え」とされていた時代であり。

要すれば「今日と違った、より良い明日があるかもしれない」「より良くしたい」「より良くなるかどうか知りたい」などという考えは、悪魔のささやきであり、神の与えたもうた今日の境遇を、死ぬまで文句をいわずに受け入れなさい、ということである。

そういう「教義」「権威」が最も嫌うものは、まさに「人間は無限大の可能性を持つ」そして「(占い含めて)その可能性を開花させるために努力する」ことであった。というわけで、表立って∞だのと書き立てたら、ひっとらえられて火あぶりになったらしい。

この辺は、敬愛するブロ友のべるっちさんが「知ってる?マルセイユ版の愚者に0が無い理由」で書いてます。また、拙ブログの「神と人と物」のトマス・アクィナスのくだりでも書いていますので、ご参考まで。

つまり、マルセイユ版タロットが他の追随を許さないのは「必要な情報を、必要な形で」すべて含んでおり、必要でないゴテゴテした飾りは全くない、そして、出し方を間違えると、強権によって処刑されるが、しかしだからこそ人々のために本当に必要な情報をうまく「絵」という「抽象の核」に包んで教えてくれている。

こうした、一見簡略化されたような絵柄の中にこめられた真理が、カードの奥底から強大なオーラとなって、人々の魂を突き刺す。

マルセイユタロットの美を「おどろおどろしい」「生々しい」と書きましたが、むしろ、軍艦のような、極限まで鍛えぬいた結果生まれた「すさまじい」機能美と形容するのが良いのかもしれませんね。


航空戦艦「日向」。プラモの箱絵。

出展は:https://ameblo.jp/a-itougunkan/entry-12615470400.html

 

ではでは。

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