不条理演劇とロマン主義的イロニー

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この記事は「不条理演劇」の記事と密接に関連しています。そちらも読んで下さいね。。。

さて、「ロマン主義的イロニー」です。

「若きウエルテルの悩み」という小説があり。ドイツらしいくそまじめな内容で、他人の嫁さんに恋慕したしょうがない青年ウエルテルが、悩み苦しみ、最後はピストル自殺しちゃう、という内容でした。

韓流ドラマなんてなかった1700年代後半のヨーロッパでは、衝撃のラスト!だったようで、ウエルテルの「後追い自殺」をしてしまう青少年が後をたたず。「読むペスト」などと恐れられる小説になってしまいました。


映画版:君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」

 

まだ純粋な青少年は、小説の内容に引き込まれてしまい。「他人事とはおもえない」と、小説の主人公に自分を重ね合わせ、主人公が自殺すると自分もおもわずやっちゃった、となったらしい。

ちなみに、これら少年たちは、「褐色のブーツに青のジャケット」と「ウエルテルの自殺シーンと同じ服装」で死んでいたそうです。コスプレの始まりかもしれん。

つまり、小説に感情移入するあまり、現実と物語の境界線がなくなってしまうのです。

驚いた出版社や作家側では、以後似たような小説の中で、次のようなシーンを挿入することにしました。

こんな感じ。

“ウエルテルジュニアは、耐えがたい哀しみのなかで、ピストルの銃口を自らのこめかみに当てた。

「さらば残酷な世界よ!」

引き金を引こうとした一瞬、

ぼこん!

突如後頭部に金属バットの一撃を食らい、昏倒するウエルテルジュニア。

意識もうろうと立ち上がると、そこには金属バットを手にして仁王立ちのブルゾンちえみがいた。

思わずブルゾンに向かって怒鳴るウエルテルジュニア

「このドアホが!あやうく脳天がかち割れて死ぬところだったやないか!この落とし前どうつけるんやごるああああ!」

怒鳴り返すブルゾン

「じゃかあしい!こんな小説の、口からでまかせ、嘘八百のいい加減な作り話で、死ぬもへったくれもあるかいボケが!それとも、おどりゃーはそのピストルで、このくず小説を読んでいるあほな読者の脳みそに風穴を空けられるちゅうんかい!」”

と、ここで、読者はあっそうか!今ぼくが耐えられない悲しみと思っていたのは、それはウエルテルジュニアの悲しみで、ぼくはこの小説を読んでいる読者だったんだ!と現実世界に引き戻され。

ここでの、ブルゾンちえみによる「金属バットの鉄槌」そしてその後の口上を、「ロマン主義的イロニー」というのです。


ブルゾンちえみ(現・藤原史織)

出展:https://www.dailyshincho.jp/article/2018/05080559/?photo=1

 

 

つまり、ロマン(幻想、虚構)の世界に迷い込んでしまった読者を、それまでのストーリーから外した・矛盾した皮肉の一撃!で現実世界に立ち返らせる、その皮肉つまりイロニーのことなのでした。

こうして純粋な青少年たちの自殺を防止することができるようになりました。めでたしめでたし。

ちなみに、ヨースタイン・ゴルデルというおっさんが書いた「ソフィーの世界」という本の451ページに、もっとおだやかな表現でロマン主義的イロニーの説明があるので、ぜひ読んでみてください。。。。

さて、人間社会には、疑いようのない「常識」と言うのがあり。

たとえば、人間としての「品性、徳行や信用」を高める行動は善だ、というのはフツーに明白であると理解します。

「品性、徳行や信用」を一言にまとめると「名誉」になります(Wikipedia)。

従って、名誉とは重要な価値である。ここまでは疑う必要のない「常識」ですね。

名誉をなにより重視したのが武士の世界で、トクすることだけを追い求めていた一部のアジアの数か国と違い、武士の国日本が明治維新で植民地化を逃れた事実は疑い無きと理解します。

ところが、こうした「疑いようのない」言葉を悪用して、権力があなたに本来の意味とはかけ離れた不条理を強要することがあります。

純粋な青少年が虚構の世界(小説や、映画など)に狂ってしまった、というような場合は金属バットの一閃もやりやすいのですが、国家権力や有識者などがこぞって「名誉は重要な価値だ」という「常識」で洗脳をかけてきたらどうなるか。

やり方が実に巧妙なので、だまされていると気づかず、「ウエルテル」が虚構であることを忘れて自殺してしまう青年のように、虚構をあたかも真実であるかのようにすりこまれ、家畜のようにふぬけにされたあげく、屠殺されてしまうのです。

その一例として。。。。

三十三間堂の通し矢、というのがあり。「京都蓮華王院(三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約121m)を南から北に矢を射通す競技(Wikipedia)」である。


京都三十三間堂

 

 

通し矢自体は善悪もくそもなく、121メートルの軒下を、軒にぶつけず床に這わせず矢を通す、というだけのことですが、しかし、現代弓道の28メートルでも、あれれ届かない、というのが現実のところ、一昼夜かけて8000本以上の矢を射とおすということがいかに技術的・体力的・精神的に神の世界かということが理解できると思います。

この辺に江戸時代の殿様はじめ支配層が目を付けてしまい。

「わが藩の名誉のために日本一の記録を作るのだ」とこぞって競争するようになってしまいました。

この辺を恐るべき迫力でかいた「弓道士魂」があり。無料で全巻読めます(https://www.sukima.me/book/title/BT0000124683/)が、以下、ネタバレしないよう部分のみ抜粋しつつ紹介します。

記録を更新できなかったらどうなるか。


 

 

切腹です。

矢を8000本通すことと、名誉がどう関係するのか?

武家の世であるから、弓術に強い藩、というのはなるほど尊敬されそうです。でも、それと8000本なんてぜんぜんつながらないことは明らかだと思います。鉄砲あるじゃん、なんて無粋なことは言わずとも、弓取りの魂の弓で、みんな8本くらいは通せます、だったらスゴイ剛弓使いの藩だ、と「こわもて」くらいはするでしょうが、単に代表者1人が日本一と言っても、実利的にはなんの意味もないはずである。

ところが、殿様はじめこんな感じ


 

 

というわけで、雨が降ろうが風が吹こうが哀れな選手が人身御供に


 

 

こうして、いつの間にか「通し矢で日本一になることが絶対必要な名誉」という常識が作り上げられてしまい。

この「常識」を粉砕する金属バットとブルゾンちえみはいないのか?

いました


 

 

ロマン主義的イロニーというより、素直な直訴ですね。。。でもこのお兄ちゃんは、直後、大会のオーガナイザーの一人にバッサリ斬り殺されちゃいます。

こうゆう不毛な競争としての通し矢は明治以降は行われなくなったらしい。

現在では、場所は三十三間堂ですが、60メートルの距離で、かつ、一応競技ではあるが、歴史を伝える行事、礼式、良きエネルギーを呼び込む儀式(お祈り?)、という感じに生まれ変わっていたのでした。あーよかった。


現在の通し矢。どきどき!わああああーい!

    出展:https://www.sankei.com/smp/photo/story/news/180114/sty1801140005-s.html

 

 

さて、この記事のメッセージです。

皆さんが、常識だと持っていること。ふつーに正しいと思っている考え、しきたり、理論などの裏に、実は「不都合な真実」が隠されていないか。疑いのようない価値観を隠れ蓑に、実は「操り人形のように、機械のように動かされていないか」?

知らないうちに、不条理を常識と思い込んでいないか?

こうした不条理演劇を粉砕するロマン主義的イロニーとして、このHPの記事が役に立てば、喜びこの上ありません。

ではでは。。。。

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