いやいや今回含めて4回にわたった連載。いつまでも際限なく続くと焦点がぼけちゃうので、えいやー!と最終回にしました。
口上はそのくらいにして、本題いってみます。
さて、西洋美術は「ふむふむ」、日本美術は「わくわく」だった、というのが前回での結論でした。
西洋美術は、記録媒体として、記録された物語を誰もがわかるように理性的かつ写実的に絵をかいた。それは聖書の物語であったり、メディチ家の誰かの肖像であったり、「民衆を導く自由の女神」みたいな概念の擬人化であったり。もちろん風景画とかで名画も多いのですが、基本スタンスは、風景はあくまで背景で、その風景を背景としている出来事や登場人物について、やれアレゴリーだのアトリビュートだのでくどくど説明し伝達するのが西洋美術だった。
*アトリビュート:持ち物。白百合を持った青と赤の服装の女性がいたらマリア様を表す、など。
*アレゴリー:寓意。抽象的な概念を具象化したもの。サイコロの絵は幸運、頭蓋骨は死、とか。
日本美術は、西洋美術と比較すると「単なる模様」だった。ははは。。。。そして、花鳥風月とか、模様ちっくな唐獅子や雷神とかがふすまや屏風にでかでかと描かれ、お城などの装飾の重要な部分として発展してきた。すなわち、日本の場合芸術と工芸があまり分離してなくて、刀の拵えにしろ、屏風やふすまにしろ、実用品の装飾、という性格がつよく。西洋のように美術は美術で独立しており、美術のための美術なんだ!工芸じゃないぞ!みたいな考えはないらしい。
尾形光琳「燕子花図(かきつばたず)」
またまた脱線しそうなので、本題の中の本題「西洋と日本の思考回路、生命の危機にさらされた時の行動の違い。コロナ禍における日本の不可思議な対策の理由」にむりやり行ってみます。
西洋の思考回路は「始点・終点があり、終点つまり成功・成果に向かって直線的に進化していく」アプローチです。日本の思考回路は「天下太平の世を孫子の代まで守り抜く、つまり過去、現在、未来が一つになってぐるぐると同じ地点を回っている」アプローチです。
*なお、人類は螺旋状で進化する、という理論があり、事実西洋絵画もデフォルメと写実の間でルネサンス→バロック→新古典主義→ロマン主義→自然主義・印象主義などと振り子のごとく、あるいはぐるぐると回っていながらも、この回転がねじのような螺旋を描いて進化していますが、日本の場合は徳川300年で、螺旋ではない単なる回転となるよう押さえつけられてしまいました。明治になりワープした。
で、西洋人の場合、理性的、普遍的な規則によってこの進化を客観的に達成しており。数学がいい例で、哲学的な意味に入るまでもなく、単なる算数レベルで、1+2は、西洋人にとっては3です。ナチスドイツであろうがソ連であろうが大英帝国であろうが、1+2=3であり、これ以外の答えはありません。
ところが、日本人の場合、その場の空気で3なり4なりに変化し。みんなの雰囲気で3.23となっているものをうっかり3.26となど言おうものなら、たちまち「空気が読めないやつ」と村八分になります。
例えば、会社の報告書などで、首相じゃなかった社長が一声「3.35だよ」と言えば、1+2は3.35です。でも、そのままでは検察じゃなかった税務署に呼び出され大変なことになるので、報告書の添付書類で「今回の調査により、小数点以下の誤差が発見された。1の場合、その誤差は0.11に該当し、2の場合は0.24である」と、誤差を合わせれば3.35になるよう、官僚じゃなかった事務方が必死にフォローするのですが、もちろん税務署は喜んで「なぜ誤差がでるのか」「1の場合0.11となる理由は何か」「2の場合は。。。」と際限なく重箱の隅をつつく質問をしてくるので、こうした「すべての質問に対する想定問答」を含んだ「実施方針対策」をあわせて作成することになり。辞典一冊みたいなぶ厚い参考資料が報告書にくっつくことになります。
もちろん、だれしも「辞典みたいな参考資料」を作ることは避けたいわけで。でどうするかといえば、普段から首相社長をカラオケにお誘いしお言葉をお聞きし、事務方同士ではZoomだろうが何だろうが、飲み会や日勤教育などで「首相社長が言いそうな数値」を事前にリサーチしておき。「今度の報告書では3.37とおっしゃりそうだ」とわかってくれば、最初から「この3.37は、1+2.37から導き出された結果です」と、税務署も文句ない?報告書にすることができます。あえて書く必要はないと思いますが、なぜ「飲み会」が必要になるかと言えば、しらふでの場面では1+2=3以外にありえないからです。こういう「飲みにケーション」ができる人はいいのですが、できないと公園で一日を過ごしたり、ニートの境遇に追い込まれたり、電車に飛び込んでしまうことになります。
長くなりましたが、日本の場合「成果を求めない。成果自体が変わってしまう」というケースがあるということです。
1+2のケースでは、計算結果は上記の「国会会社」あるいは「ママ友のグループ」など、はっきり言ってそれぞれが属しているクラスターの「空気」に従って決定され、そしてそれは日々流動することとなります。
で、コロナ対策。
この対策の目標、成果についても、いろいろなクラスターの空気によって変化しています。
その結果、日本政府の政策はこうなりました
出展:https://note.com/hyamaguchi/n/n0c60c7292ec3
ブラジル大統領の確信犯バカッター発言「ただのカゼだ」の方がまだましかもしれん。やってることは日本政府と同じですけど。。。
日本では、巣ごもりの人、花見に行く人、そしてキャバクラに行く人もそれぞれが属するクラスターの空気に従っているだけだと思いますが、しかしこの玉虫色に変化するスタンダードが大惨事を招く可能性があります。
実はそう遠くない昔、日本の軍部は「飲みにケーションでしか説明できない決定」で、飲みにケーションなんて感知しないアメリカと戦争を始め、原爆を落とされました。コロナも飲みにケーションなんて通用しないウイルスです。
ぜひ日本の人は、日本の政治家がいう「注意お勧めします」というこれまた煮え切らない玉虫色の勧告ではなく、世界で日本に先駆けて起こっている参事を参考にして、徹底した巣ごもりを実行すべきと考えます。
このままだとかなり暗然とした終わり方になってしまうので、ちょっと補足
―西洋の超一流の芸術家たちは、芸術と言いながら理論・理性に縛られて、直観・啓示・感性が遠ざけられてしまっている現実に悩んでいた。
―そこに「わくわく」の日本美術、理論なんて細かいこと言わんと、ダイレクトに感性だ!という「12歳の少年のもつ純粋さ」が直撃し。西洋人の精神年齢「45歳の老獪な成人」の凝り固まった感性を粉砕した。これがジャポニズムです。
もちろん、たとえばアングルの写実絵画にも啓示や感性はあります。(「泉」を見て、おもわずその絵画の中に迷い込んでしまったような錯覚を受けるとか)。一方、知らず知らずのうちに単なる歴史・人物・事件・風景の絵解き説明になっているだけというケースもあり。すなわち、「歴史、人物、事件なんてどうでもいい!絵画がそれ自体で芸術として成立すべきだ!」という叫びが生まれていたところに、「犬図」みたいな日本画を見て、まさに成立している実例があることに驚愕した。そして、純粋芸術の可能性に目覚めた西洋の芸術家たちは、西洋人得意の「直線的進化」によって、まずは画題からの解放、そして具象から脱出し、「点と線と面」へと進んでいます。この辺の話は、またいつか「カンディンスキー」をお題にして書いてみたいと思います。
大好きな「犬図」。毎回こればっかりですみません
さてさてまたしても3000字を超えてしまいましたので、この辺で終わりにしますが、日本人の「12歳的柔軟思考」が良い面で出れば明治維新や戦後初期の民主主義導入(そしてジャポニズムも)、悪い面で出れば軍国主義となり。コロナ対策ではかなり悪い面で出てしまっていると思います。天真爛漫な12歳に回帰しながらも「螺旋状に進化していく日本」を願っています。
ではでは。
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